日なたのアイスクリーム

オタク気質30代の散文裏ブログ。日常での気づきやオチのない日記、犬や猫のことなど。

誰といるときの自分が好きか それはジャッジが前提なのか(ちがう)

たぶん、基本的には誰といるときの自分もあまり好きではないし

むしろひとりでいるときのほうがまだ自分にオーケーを出せる。それが問題だ(盛大に冒頭で答えを出すな)。

みんな(とは?)のことは好きなんですよ!

ただ自分のことが好きになりきれない、

そういう部分がまだまだ無くせていないだけで。

 

単独で行動しているときのほうが、人に迷惑をかけない気がしてしまうからラクというか そんな感覚に陥ることも正直多い。

 

蒼井優の結婚前の発言で以前ちょっと話題になった表題。

そういえば私は逆なんだよな、と思い返す。

もちろん、恋愛でも友情でも。

(※親きょうだいの関係は除きますが、身内といるときの自分大好きィ!という感覚もあまりなく もちろん好きで感謝の気持ちでいっぱいですが。きっともっと時が経ってから気がつくことが多いのだろうな)

誰かといると、そんなに好きじゃないおかしくて無礼な自分が登場して暴走して

ひとりになると冷静に自分を取り戻したような気になり

安堵したり反省することなんてしょっちゅうだ。

特に文章を書いているときは、いろいろゆっくり俯瞰できるからいい。

これがなかったら人間的にまずいのではと思う。

 

きっと表題は「素でいられる、いい面もそうじゃない面も晒せる(晒しても大丈夫と思える)、取り繕わなくていい、受け止めてくれる、自分といることを面白がってくれるように感じる、だからなぜか自己肯定感が増すetc →あ、私あの人といる自分が好きかも。または好きになれるかも」

または「あの人といると、『自分の思い描く理想の自分』に近づけるかも」

そんな気持ちが含まれるだろうと解釈していた。

 

理想の自分に対するハードルが高いほど自分のことは嫌いになるから

「ま、こんなものだろ」と納得できるぐらいの理想でいい気がするが

それがなかなか難しいもので。

 

で、気になって蒼井優のインタビューを検索してみたら少し違った解釈だった。

「“誰を好きか”より“誰といるときの自分が好きか”」の本当の意味【蒼井優】|ウートピ

蒼井:本で読んだんです。私もそれを読んだときに、「なるほど」と思ってヒザを打って。それって恋愛に限らず、友人関係でも言えることなんですよね。

 例えば、友達と会ったり、人と会ったりした帰り道に、私は「今日の自分は好きだったか?」と自問自答して判断しています。それでいつも良い友達に囲まれているなあと思いながら帰っています。

——「今日の自分は好きだったな」と思うときはどんなときですか?

蒼井:相手に合わせて会話をしているのに楽しかったなとか。2人でキャッキャと盛り上がったときとか。

ストレッチもそうですが、前屈すると後ろが伸びている感覚のほうが強くて、限界に感じるけれど、限界にきたときにおなかの内側を縮める感覚にすると、もう一歩先に行けるんです。

それと一緒で、人間関係に悩んだときも自分の主観という視点を真逆に持っていってあげるともう一歩先に進めたり、いま固執していることがどうでもいいことに感じたりするんじゃないかなと。

——逆から見てみるんですね。

蒼井:自分を好きかどうかは、素の自分を認めてあげられるかどうか。大人になると、自分が楽しめているかどうか、認めてあげられるかどうかの基準が子供の頃と比べてまったく変わってくる。大人になった今は、その感覚でいいんだろうなという気がしています。

 

 

私は帰り道にだいたい自分に減点をしてしまうがなるほど。

そもそも蒼井優は「その相手に自分を認めてもらえるか」が基準や焦点ではなく

「その相手といるときの自分の振る舞いを、自分で認めてあげられる」ことを重視していた。

確かにそのほうが健全に自分を好きになれるよな。

しかし相手に合わせて会話しているのに楽しかったな、という気づきはなかなか興味深い。

そんな自分えらい!ってことかな。

そういう感じでもいいのか。

 

素の自分を認めてあげられるかどうか。

ほとんどの瞬間で

あげられていないなあ。

 

私がかろうじて自分を認められるかもな、と思う日は

たいてい相手からほめられたり、相手が嫌な気持ちになっていなさそうだと肌で感じたとき。

仮に自分が楽しくても、相手の様子が心から楽しんでいる感じでなければ 

そうさせてしまった自分のことは好きではない。

自分軸より相手軸に振り回される割に、

やたらと自分のことしか見えていないのだ。

 

 

いつも「ちゃんとした人の振る舞い」に憧れていて、

だけど大抵、それが明らかにできていないから

いつも夜中か翌日以降にひとり反省会をする。

何週間も経ってから「はっ、あれはやっぱり良くなかったかも」と

突然気になったりすることもある。

 

自分でも分かっていて、分かっているのになぜか

その場ではおそらく「不正解」な行動をとる。

あとから反芻すれば気がつくことも多いのだけれど、

時差がありすぎて直接言えないまま時は経つ。

おそらくおかしな行動をとったあと、

相手がそんな私にすっと呆れ、

または冷ややかな目で自分を見ているような気がして(※気がしているだけです)

瞬間、ああ、きっとまた間違っちゃったんだな、と悲しくなる。

 

萎縮なのか、緊張なのか、はたまた

ただの背伸びなのか見栄なのか

よく分からないのだけれど。またはぜんぶかな。

 

常に自分に自信がないからそうなるのか?

自信を持って話しているような事柄すら

実は自信がなかったりするが(ややこしい)

それでもちょっと自信が滲み出ちゃっていることもあって

ポジティブに饒舌になっているときは

「自分のくせに」と後から恥ずかしくなるし、

そんな自分がシンプルに好きではない。

 

 

かなり前、ある同性の知人と少し会うのをやめようと思ったことがあった(この日記を見るような間柄の人ではないので「えっ私のこと…」と誤解しないでね)。

その理由はとてもとても理不尽な、

「このままでいると相手も自分も嫌いになってしまいそうだから」というものだった。

 

相手は何も悪くないのにモヤモヤしている自分はなんて性格が悪いのかと悲しくなり、

そう思ってしまう自分を受け入れられなくなり、

心がどんどん重く底に沈んでしまいそうで

ならば会わないほうが、と飛躍する。

 

相手を攻撃したくないのはもちろんだけれど、

こう、なんて言うんでしょう

どんどん嫌なやつになる自分を見たくなかった。

 

相手がいるのに自分本位なんですよね。

そして、自分のことをあまり認められないのに

いっぽうで「嫌なやつになりたくない」ってことは

普段は自分をそこそこ「いいやつ」だと思っているとも言える。

それもどうなんだ。

 

あ、でもね、自分が好きな自分でいられるときもあるんですよ。

たとえば、推しや好きなものや好きなお店を紹介するときや、

購入したハンドメイド作品の作家さんに直接コメントを送るときなどは

相手や何かへの感情がほとんど混じり気のない明るいものだし

相手や対象が言われておそらく嫌な気分になることはないだろうと分かっているから好き。

安心して好きなことを好きと言える。

あとはバイト含め接客をしていた時代や、誰かの仕事のお手伝いをしているとき。

人と接する仕事ではなぜか自然に笑顔が出るしいつもより喋れるし、

お客さんが心を開いて?くれることも多い気がする。

けっこう商売の役に立てる気がするからそんな自分のことは好き。

ファーストフードのバイトも楽しかったし

洋服の販売で自分が着ていた服を買ってくださるときも嬉しかったし

音楽制作会社にいたときは、ライブやショッピングモールイベントの応援でお客さんと接することが好きで仕方なかった。

MIYAVIさんのファンの子(当時は仔雅と呼ばれていたはず)に「お姉さんと話せてよかった!」と言われたことを未だに覚えている。

 

そして、納得のいく文章を書けて、それを届けられて良い反応があったときも自分を認められる感じがしている。

誰かの喜びや彩りに少しだけでも貢献できたときは嬉しくなるし、

できるだけさまざまな角度から人が傷つかない文章を書きたいと思っている。

 

そう、誰かのために自分の特性を生かせて使えていると思えるときは 

ああよかったなあと幸せになるし

そんなときの自分はとても好きなんだよな。

 

通常の人間関係でそれが生かせない理由はなんだろう。

恋愛や友情では金銭が発生しないし(プレゼントなどは別)

利益のために自分の力を役立てることが第一なわけではないから

自分がそこにいる意味もないと思ってしまうってこと?

 

自分がいる意味を、誰かの役に立てるか、でしか判断できないってこと?

 

うーん、それはそれで真理だとも思うけど

そうか、私は本当はあの人たちの役に立ちたいのかもな。

でもそれはそれで「友人知人にジャッジされる」感覚が抜けなくなってしまうのでは?

むむむ、難しい(難しくしているだけです)。

 

 

誰かといるときの自分が基本的に好きではないのなら

やっぱりひとりでいればいいのでは?と思いもするけれど

まあ実際、ひとりで人に何も言われない、踏み込まれない世界もラクだから。

でも、ひとりになりすぎると傲慢な世間知らずになりそうで

傲慢な自分も好きじゃないわけだから。

 

じゃあ結局、関わるか、人と、と なるわけだけど

めんどくさいなー自分。

なんでなんだ。仕事で人と関わるのは、話すのは好きなのに

プライベートだと関係を持続させることにものすごく心を使い緊張してしまうなんて。

 

 

ひとまず相手にジャッジされていると思う感覚を、

そこが高得点ではないと友人にすら認められない(→そんな自分のことが嫌いで相手にも萎縮する)という思い込みを

なるべく意識的にやめていこう。

 

ふつーにパンを食べたりカヌレ食べたり

ふしぎな名前の店名に笑ったり

ドラマの感想をあれこれ交わしたり

道端で満月に気づいて立ち止まったり

そんな何気ない瞬間に、関係性に点数なんて付けられない。

 

または、どうしてもジャッジの感覚が抜けないのなら

もっとハードルを低くして

「別にダメでも命まで取られないからいいんじゃね?」と思うのはどうか。

それぐらいの雑さが私にはちょうどいいのかも。

ジャッジされてダメでも大したことはない、と発想の転換をするとか

ダメならこれから変えればいいんじゃね?と立ち上がるか。

(もちろん自分が悪いことなら直したいのでそれとこれとは分けて…)

 

相手からの合否や自分に対してダメ出しをしても、それが原因で私は消えたりなんてしないものな。

 

うん、まあ、それは最終手段として

メリットや評価なしでいられる、いてくれることを普段からもっと大事にできたらいいなと思う。

「わかるだろ。メリットなしで僕といてくれるとこさ」

という大好きなカレカノの台詞を思い出して終わります。