日なたのアイスクリーム

オタク気質30代の散文裏ブログ。日常での気づきやオチのない日記、犬や猫のことなど。

誕生日の正解(なんてないけど)

七草の日に生まれた。年が明けると割とすぐにひとつ歳を重ねるから、年末年始とセットでなんだかいつもいろんなイベントが一気にやってきて終わる。わっしょいわっしょい神輿が脳内で賑やかに駆け巡り去っていく。三連休明けぐらいからようやく新しいことが始まる実感。今年も無事に生きて誕生日を迎えられた。よかった。

この「無事に生きて誕生日を〜」のくだり、たぶん20歳ぐらいからやっている。命を落としそうになったことでも?幸いまだあまりないけれども(20代後半でトラックに巻き込まれたときが一番危なかった。かすり傷で済んだが)、常に生きていることは不思議だと思っているので「あ、今年も生きている」と客観で実感する日がこの日なのだろう。私の中で。

もちろん何より親に感謝する日であるし、周りの方々の優しさを感じる日でもあるし、めでたいな!と自作自演で喜んだりなんとなくお菓子を多めに食べてもいい日でもある。

 

親に感謝する日であるが、30代もベテランになると当の親も娘の年齢や誕生日を間違えそうになったぐらいナチュラルに「あたりまえの普通の日」になりつつあるけども、たぶんそれが平和なのでしょう。なんていうか、あまり特別感を持った主張をしなくなるな。したら申し訳ない、と思ってしまうというか。

 

誕生日の過ごし方の正解が未だに分からない。そんなものは各々違うし勝手に考えようというのは承知で、どういう立ち位置でいればいいのだろう。いや、各々それぞれでいいのだけれど。

冷静に誰にでも誕生日はあるわけで、自分だけが特別じゃない。でも、つまりみんな特別。毎日誰かを祝っていいはずだが人によって過ごし方や捉え方の差が生まれるのは当然。普段の生き方やコミュニケーションの積み重ね。秘密主義、祝ってもらうのは恥ずかしい。はたまた相手への関心度。色々個体差(?)はあるので慣れていかないといけない。

なんとなく、あ、この人もうすぐ誕生日なんだな、と分かるとお祝いしたくなるしなにかちょっとしたものを渡したくなる。でも自分がそういう待遇を受けるのは超嬉しいけどなんとなく申し訳ないという気持ちにもなる。めんどくさい人かな。あとは、もうおそらくわいきゃい全力で自分の誕生日の話をする季節は過ぎたのではと思うし(いやいつでも祝っていいんだよ。ただあまり括るのは良くないけれど、世代的には落ち着いている人は多い)、最近は「あまり事前に言わない」選択をしている。

そのくせ、いつ?と聞かれたらちょっと嬉しくなって答えるからこちらは覚えていそうな相手を覚えてしまっていて、しかし当日連絡がなかった場合はひそかに切なくなったりもしてしまうから心理ってものはややこしい。「言わないこと」は単に傷つかないように防波堤を作っている側面もあるかもしれない。

 

同世代のインフルエンサーSNSで、自身の誕生日の3週間前ぐらいから「プレゼントいただいた♡」「ケーキでお祝いしていただいた♡」的な投稿が続いていたのを見て、ちょっと圧が強めかなと思ってしまったのもあるかもしれない。いや、私もお祝いが嬉しくて投稿することはある。ただ一般人が真似すると前段期間が長すぎて大変なので気をつけようと思った。インフルエンサーで仲の良い人も多ければたくさん祝われるのは当然だし、紹介することで渡した相手の良さも伝えられるしなんの問題もないが、一般人がそのまま真似してしまうのはやや危険。圧が強い大人はこわいよねきっと。言うと相手は覚えなくてはいけないし、会ったらあげなきゃいけないのかなとなる気がする。クリスマスやバレンタインのように盛り上がる前段期間が長すぎてもいいのは、バースデーイベントのある著名人やインフルエンサーや誰からも愛されるキャラに限るような気がした。

そういえば「最近は、プレゼントは実際の誕生日付近に会えた人にしか渡さない」と言っていた先輩がいたな。それも良い気がする。

 

祝った相手には祝われたいとか、ああ一方通行だったのかなとか、そんなことで勝手にしょんぼりとした頃も確かにあったけれども、手放した。

まず、どの口が、という反省。自分だって周囲の人の誕生日をうっかり悪気なく忘れてしまったことだって正直ある。とても気まずい。けれど祝いたい気持ちは本当。あの人だってきっと同じような気持ちだから、空白にいじけないこと。また、悪気というよりなんとなくの習慣をやめたいだけの場合も自他共に許容すること(あるよね、大人になると)。

それと、なんだか祝われることを目指して人間関係を築こうとしているようで、気にし過ぎている自分が恥ずかしく愚かだなと感じたのもある。付け焼き刃ではなく日常のなんでもない日を、打算なしで人としっかり関わることのほうが大事だ。誰かに思い出してもらえる存在になりたい、だけではだめ。人に好かれたかったらまず自分から人を好きに。と、これは自戒も込めて思う。人をよく見て接していたい。

 

あまり主張はしない。ただ、本当に全く誰にもその日を知られず、うっかりの遅れすらなく、誰からもおめでとうが言われないとしたら正直寂しい。寂しくなると思うし、生き方を顧みて反省するだろう(定期的にしているつもりではあるけれども、自分に甘い)。

さすがに「私には誕生日はありません」という顔はしきれず、ほんのり覚えていてほしそうな素振りはこれからもするかもしれない。でも、めんどうな人になりたくないのであくまでクレクレアピールのない程度に…ああこういう考えが既にめんどくさい人だよねえ。

 

……と、ぬるっと迎えた日ではあったが、こんな話をつらつら書いているような女のことを覚えていてくれる方々がなんと今年もおりまして、色々な方におめでとうのメッセージやギフトをいただいてしまったのが一番ありがたいことでした。嬉しい。ありがとう。毎年連絡やプレゼントを贈ってくれる友人、サプライズなギフト、久しぶりに話しかけてくれた人、教えていないはずなのにメッセージをくれた人まで。

全部嬉しかった。心があたたかくなった。歯磨きしながら「これだけの人が声をかけてくれるなんてありがたいな」と感激して、感謝しながら眠った。充分だな、とも思った。人生悪くないと思えるのがこの日、なのかもしれない。

アピールはしすぎたくないけれども、やっぱり完全に忘れられるのは寂しいかな、今はまだ。

 

でもなんで教えていない人からもメッセージが来たのかなと考えて、そういえばSNSで何気なく誕生日を設定していたことを思い出した。いやアピールしているじゃないかと、これまでの文章が水の泡になりかけているけれども、どうなんだろうこれは。かまって系…か、ただ、SNSって人から思い出してもらえる素敵な機能を搭載してくれるとも言える…そうだ、この機能であやふやだった人の誕生日をこっそり確認して、自信を持って当日にお祝いできたりもしたんだよな……オフにするかは…ちょっと考えよう…

 

私がこんな堂々巡りのこじらせ系思考をしても、気を使っても使わなくても、めんどくさいことを考えても考えなくても、どんな状態でも「ただ覚えてくれている」人たちもいる、いてくれる。それが何よりとても恵まれていると思う。純粋に祝い、祝われる。そこに打算はない。私もその人たちの生まれた日はずっと覚えている。

 

正解なんて本当は何でもよくて、何もしていなくても当たり前のように存在を覚えてくれる人がいる。それだけで生きている意味ってあるよなあと、本気で思う。生きていることは不思議で、そしてたぶん、関わる分だけ誰かやなにかの力で、生かされている。

 

みんなありがとう。そして今日誕生日のどこかのあなたも、おめでとう。お互い素敵な一年になりますように。