いい子ちゃんの文章
最近、「まとまらなくてもとにかく文章にはしてしまおう」という取り組みをしている。
昨日は「頭の中がうるさいから一呼吸置いてから考えよう話そう」という主旨の記事を残したばかりだが、文章ではもっと瞬間的に?なんていうか「いい人」でいることをやめている。
心の中の矛盾や不純物のような感情も、取り繕うことなく残しておこうと。
公開するかは別として、そういう「なんにも誰にも配慮しないすっぴん状態の思考」を可視化して、心の声を把握するのを
もう少し本気でやってみてもいいんじゃないかと。
そう、これは練習だ、リハビリだ。いったいいつぶりか不明なほど久しぶりに
瞬間的な思考を、星座のようにつなげる。
意識しなくても一呼吸置いて考えることができる文章の中では、正直いくらでもいい人になれてしまうとも言える。
それをあらゆる場所で心がけていたら、皮肉なことに本音を言える場所も向き合える場所も減ってしまった。ように感じる。
ずっとのスタンスとして、偶然私の文章を見た背景も境遇もわからない「誰か」が傷ついてしまう文章はなるべく書きたくないと思っている。
(たとえば、私はA(仮)という歌手にはあまり興味がないしむしろ苦手だけれど、Aを好きな人やA本人が偶然見たら嫌な気持ちになるだろうと予測をしてAの話題は持ち出さないし書くこともしない。的なそれとか)
もちろん全国民の気持ちや背景をカバーするのは不可能に近いが、それでも嫌な気持ちになる人がいないか?と問いかける視点は常に持っていたい。
ただ、公開するかは別として、もちろん物事や出来事に対してさまざまな感情を持っているし、あらゆるものに対してBIG LOVE精神が鍛えられているわけでもたぶんない。
15年前のブログなどではまだあらゆる方面の配慮をすべきと思い至らなかったふしがあり、けっこう辛らつな、独自視点の、冷や汗ものの記事が残っていたりもする。もちろんそれは非公開にしているけれど。
やさしい、と言われることはなぜかよくあった。過去には職場で「誰にでもやさしい」とまで評されたこともあったり。
自分ではとてもそうは思えない。でも、もしそう思ってくれる人がいるとしたら、言葉や文字にするときにちゃんとフィルターにかけるから、かけてしまうからなんだろう。
あるいはあまり関係性を築けていなかった相手なのかもしれない。気のおけない人たちにはきっと、あまりむやみにやさしいとは思われていないだろう(これは皮肉ではなく好意的な意味)。遠慮をしないから?気を使えないから?実際は毒舌だから?そう、どちらかと言うと仲の良い人には毒舌と言われることが多かったのに。おそらくそのどれもが合っているというかなんというかスパッとひどいな。
そう、本当はぜんぜんやさしくなんかない。言葉を取捨選択していい面だけを見せられるかもしれない自分が、ときどきとんでもなくずるいんじゃないかって 思うんだよ。
そういうわけで、しばらく生まれた感情をそのまま文字にする訓練をしてみます。公開するかは別として。
あ、ちなみによくある「独身は◯◯で既婚は△△」的な違いを語るネタに関してのスタンスは文章と思考が割と一致しているな。
文章でいい子ちゃんになりたいわけではなく、「この下げた言い方、私個人には当てはまっても同じ肩書きの全員がダメなわけないだろ」と思ってしまう。だから断定して書かない、というか話題にも出さないのだった。
独身でも既婚でも、どっちの側にも素敵な人や苦手な人はいるよなあ。私の友人は独身既婚どちらの立場もいるけれども、みんな素敵よ。
傾向として分けたいのは理解できるけどもね。断定までは、やめておくれ(小声)。
あ、辛らつなご意見版キャラになりたいわけではないのでそこは安心していただければ…(?)
あくまで、湧き出る聖人君子じゃない感情からも目を逸らすなってことですね。たぶん。その練習!