日なたのアイスクリーム

オタク気質30代の散文裏ブログ。日常での気づきやオチのない日記、犬や猫のことなど。

努力才能自己分析(ジャンプの三大原則のように)

隣の芝生は青いとは古くから(?)使われている言葉だが、どんなに蜃気楼のようなものだと分かっていてもその芝生はしかも自分の芝よりも広大で手入れも綺麗にされているように見える。だったら自分の芝も同じように綺麗に満足のいくものにすればいいのに、なぜか自分の芝を疎かにして人の芝のデータばかり取ろうとする。膨大な芝情報のデータを抽出して「自分の芝と同年代の芝を比較するとこんなにも違うのか」とか分析を依頼されているとでもいうのか。

 

おかしなところで妙な自信と劣等感があるタイプだと感じている。どんなに青い芝に憧れても最終的には自分が納得しているかどうかが判断基準になるが、たとえ納得していてもすべての選択が正しかったと後ろを振り返らずに突き進んでここまで生きてきたわけではない。たくさん迷って悩んで、喜んだり自分を責めたりほめたりしてきた。「間違っていても後から修正すればよくない?」とあっけらかんと思える性格に憧れるし、できればそうなりたい。

 

いしだ壱成が働き口がない、とこぼしても「いや演技の才能があるだろう」「また俳優をやればいいのに」「やってほしい」と多くの人が突っ込みたい気持ちでいっぱいではと推測してしまうが、本人は気づかないものなのかな。その特別な才能と天職と、「持っているもの」に。病気があって調整は難しいのかもしれないけれど、少なくとも昔のドラマを知っている身としては独特な存在感を放ち演技で心を動かす能力のある人であったことは間違いないと言いたい。

もちろん天職じゃなくても、好きだったりやってみたいことがあればそれを突き詰めればいいし、自ら天職にしてしまうぐらいの気持ちがあればいくつになったっていろんな可能性の下で生きていけるはず。規模は全く違うけれど、私だって人から見たら「いや、あなたにも◯◯があるだろ」と特に心配されなかったり突っ込み待ちと思われることもあるのかもしれない。本人が特に大変と感じないこと、何時間やっても苦にならないこと、没頭できること、楽しいこと、いろいろあるけれど。

漠然とずっと思っているのは、環境の変化があったとして、それを誰かに告げたら「めっちゃ合ってるよ」「それ絶対いい」「あなたにぴったり」と言われるような、パズルのピースがハマるようなしっくりくる方向に行けたらいいなということ。格好良く言えば自分の生活をデザインするってことか?今だって恵まれているしあの頃に戻りたい的な不満もなく、むしろどうして特に何も成し遂げていないのにこんなに世の中の恩恵受けているのかと恐縮するが、そこから飛び出すとしたら「そうなると思っていたよ」的な自他ともにギャップの少ないしっくり具合を見極めていきたいと思ってしまう。

自分が納得することが大事だし、イメージだけでその人の性質を決めつけてしまうことは危険だが、周りの人のほうがとっくに適性や穏やかに生きられそうな方法を知ってくれている場合だってある。自信がない人ほど人に頼ったり意見を求めることをほんの少し頑張るといいのかも。これは自分に言っている。いしだ壱成がその「出来ちゃうこと」や「求められていること」に向き合って気がついてステージで光を浴びて笑顔になって身近な人を笑顔にさせることもできたら、きっとなんというかかなりホッとしてしまう私がいるだろうな。