日なたのアイスクリーム

オタク気質30代の散文裏ブログ。日常での気づきやオチのない日記、犬や猫のことなど。

愛する人のためのこの命、という歌詞

昨日の家トレピラティスが思った以上に効いて、お腹、お尻、腿の裏、腕など広範囲で筋肉痛。教室でそこそこハードなメニューをした翌日に訪れる筋肉痛とほぼ変わらず驚いている。やればできた。家でもそれなりに、やる気さえあれば運動はできるのだ。自信になる。あと関係ないが筋肉痛が2日後に来るともう歳だなんて言うけれど、現状はもれなくまだ翌日にきている。というかやばいときは当日にきている。それって若さうんぬんというより、もしや元々の筋力がないからではとも思うけれど。

 

まだ体調が本調子ではないため残業はできないかもしれない、と宣言したのに別件で0時ぐらいまでPCと向き合ってしまう。しかしこれは業務外でやりたいことだったので残業ではない。そう、業務外で「ある人のための企画」を形にするため編集と書き物をしているのだが、その工程で何度もうっかり泣いてしまっている。さまざまな知り合いの、あるひとりの人に関する文章を集めてひとつのファイルにまとめていると、本当にどの文章もとても良くて胸がいっぱいになってしまう。その人の温度を身近に感じられる。集めてよかった。悲しいけれど、とても、やって良かった企画だ。それぞれの文章の順番も少し考えた。全体を見てあまり違和感のないバランスに、そしてさり気ない繋がりを持たせられたと思う。編集は任せてくれ、と言えるような力を持ちたい。考える時間が好きだから。

 

子猫はすっかりいつも通りにごはんを食べるようになった。寝ている時間は多いものの、ジャンプしたりそこそこの速度でも階段を下りるように。動物の回復力と、「無理できない」ときの静の徹底はすごいなと感じる。自分で分かっていて、回復するまで力を溜めているんだな。

そして動物同士の暗黙の了解、察する力もすごい。先住猫、いつもは子猫と追いかけっこしたり取っ組み合いしたり、ふたりでじゃれることが多いのに病院後はそれが一切ない。子猫から仕掛けることがないのもあるが、まだだな、と先住猫も察しているとしか思えない。そんなものだから体力が有り余っているのか眠る時間に瞳をカッと見開いて私を獲物と勘違いした先住猫(めげない)。ふたりの追いかけっこが復活する日はいつだろうか、待ち遠しいなあ。

 

寝る前に動物たちに話しかけることが多い。今日もよく頑張ったねとか、えらいとかすごいとか可愛いとか、こっそり大好きだよ、とかも言う。空気で知っておいてほしいなと、結構話しかける。

今日は先住猫が眠る前にサイレントニャーをした。サイレントニャー可愛いんだよね。不意打ちすぎて撮影できた試しがないが。調べるとサイレントニャーは飼い主への信頼の表れだとか、甘えているだとか出てきてきゅんとする。お互い会話できなくても伝えようとする関係性は変わらないのではないかな、今も昔も。

 

白いお腹を見せて眠る猫をもしゃもしゃしながら、唐突にエレカシの某曲の「30代 愛する人のための命だってことに ああ 気づいたな」の歌詞が浮かんだ。突然分かるような気がした。いや、ほんと急にだけど。

 

愛されることもそりゃあ好きだけど、好きでいること、愛することも好きだし醍醐味だよなあ、なんて思ったり。人間への愛情、動物への愛情、どちらも幸せな感情。

素敵な人間性を伝えたいから文章を書く。

友好的な気持ち、好きであることを伝えたいから動物にも話しかける。

一見結びつかないように見えるこの2つの出来事、綺麗すぎる言い方で恐縮だけど 誰かのために伝えることがきっと好きだ。純粋な好きや感動を伝えることを恐れずにもっと続けていたい。口にするのは下手だけど、言葉を生き物にし続けていたい。

やっぱりエレカシすごいな。先回りして体験してくれているのは気のせいじゃない。

映画『シェフ』を観た(日曜日の充足)

朝起きたときの「調子」で、いつも通りの日々を過ごしていいのか、それとも少しゆるめたほうがいいのかはなんとなく分かる。コーヒーが飲める、ビールが飲める、体調の自己管理をするようになる(あるいはそうしなければならない)、大人になるとできることが増えるものだな。ここ数日は少し無理をすればころっと荒れ模様になりそうな状態だったので積極的な外出は避け、小さな猫のことを気にしながら自宅で本や映画や文章を書く時間に助けてもらいながら過ごした。ちなみに猫は食欲も戻り一安心。

ほぼ毎週通うピラティスレッスンも今週は控えたが、体がうずうずしてきたので(万全になってきた)夕方には良質な動画やなんとなくの記憶を辿りローラーで全身をほぐし、それから軽いマットピラティスとストレッチを行った。1年以上レッスン通いを続けていると、セルフでもそれなりに「効かせる動かし方」が出来るようになるのか、お腹とお尻と足がプルプルした。ちなみにやる気を出すために家なのにウェアに着替えた。今週も一日だけでも運動できた達成感に包まれて眠れそうだ。

 

夜、最近観てみたい熱が高まっていた映画『シェフ』を観た。Amazon primeにあって嬉しい。評判通りとても面白かった。これはかなりおすすめかもしれない。観終わったばかりなのに既にもう一度観たい。今度はおいしいホットサンドを─できるだけアツアツのものを用意して、熱い熱い、チーズがのびるとか言いながら食べて、観たい。本当はキューバサンドのレシピを検索したいけれど、深夜に見てはならないから明日にする。

食べることが好きな人はもちろん、飲食関係の仕事に就いている人が観ても面白くワクワクできる作品だと思う。ただ、食というテーマを通して人生を豊かにするための心構えというか、充実感、心から楽しめることを思い出す(見つけていく)面白さが描かれていると感じたので、この映画を単なる飯テロ映画と捉えるのは勿体ないかな(テロという言い方があまり好きではない意味も含めて)。料理にさほど興味がない人でも、観たらきっと愉快な気持ちになれるはず。所々のシーンで自分が自動的に笑っていることに気づいて少し嬉しかったもの。人と会っていないのに自然と笑顔になる瞬間があるっていい。核心にふれたネタバレはしないけれど、雰囲気が分かることを今から書くので読む人は注意してほしい。prime会員の人はここからすぐ観られるのでぜひ。

まず冒頭2分で陽気な音楽を背景にリズミカルで食材が喜んで踊るような包丁捌きの料理シーンが描かれ、ああこの映画好きだな、とすぐに世界に入り込めた。私は厨房が見える吹き抜けスタイルのお店ではほぼ必ずシェフが調理する姿が見える席を選ぶので、テンポよく美しく料理する姿を見るのが好きなのだと思う。こう表現していいか分からないけれど、動きのひとつひとつに無駄がなく、立ち回り含めた工程がすべて芸術的でひとつの作品のように感じるシェフやお店に出会うと感動する。この映画の料理のリズムもとても好きだった。

 

いくつかのレビューで見た通りあまり悪いキャラクターがいないのも良いし、問題が発生しても映画全体が人気店のように明るい雰囲気だから心が荒まない。題材的に料理がおいしそう、お腹が空きそうなのは予想がついたとしても、テーマの魅力、キャラクターや役者の魅力、応援したくなるストーリー展開、溶け込み気持ちを盛り上げる音楽、印象的な言葉、観終わったあとの満足感、これらが揃っていないと繰り返し観たいとはならないから。

また行きたいお店、リピーターになる理由も、味と同じぐらい「お店全体の雰囲気」が私の中ではとても重要。料理も映画も、もっと言えば他の事柄も同じ原理で、どの調味料や空間の雰囲気が欠けても成り立たない良さってある。「あのとき食べたおいしさ」や満足感にまた出会えるか、それは本当に運やタイミングかもしれないけれど。

 

息子や元妻との関係性も良い。SNSネタも個人的にはいいスパイス。しばらくあの口笛に似たツイート音を思い出すだけでカールの気軽なツイートが浮かんで笑ってしまうな。インスタが登場しない不思議はあったが拡散性ではまあそうか。vineに時代を感じるのはSNSのスピード感ならではかもしれない。どんなに最先端の話題を取り入れても、後で見たらそれは歴史の1ページになる。というか息子可愛くて健気でSNSマーケター&クリエイターの素質ありだし、元妻は美人で優しくて同僚も打算がなくて主人公のカールをみんな慕っているのがほんと救いで嬉しい。これ以上は言えないけど、批評家は不器用なんだよ。とにかくおいしい料理を食べたように満足感のある映画。

ちなみに私はエンドロールまで、主人公のカール役の方が本物のシェフじゃないことを割と本気で忘れていた。そのぐらい腕のいい、明るい料理好きのシェフでしかなかった。

 

「世界に存在するのはサンドだけ」この言葉が妙に忘れられない。そういう心構えで仕事をしたい。どこで登場するかは、たぶんちゃんと観た人じゃないと永遠に分からない。この映画を観た人と話がしたくなっている。

 

安心してハッピーな気持ちに身を委ねながら観られる作品が好き。思ったより自分の中で重要なポイントかもしれない。そういう作品を休日やふと訪れた時間で観ていくことを繰り返せば、人生の中に確実に「いい時間」が溜まっていくのだなと思う。

この映画は安心できる。ただ、逆を言うとあまりハッピーじゃなくていい、ドロドロした映画が好きな人には少し物足りないかもしれないから、そこは好みに合わせて調整してほしい。それこそどんなお店でどんな料理を、誰と(もちろんひとりでも!)食べるのかは全部自由なのだから。

 

 

レビューもワクワクさせてくれる。趣味のひとつがユーザーレビューを読むことかもしれない。ただしクリックする前に注意は、映画にちなんでとてもおいしそうなレシピを教えてくれているユーザーがいること。寝る前に見てはいけないと言ったキューバサンドではないものの、そっちのレシピもおいしそうに決まっているではないか、と。ありがとな…お腹が、とても空いている…明日パン買ってこよう…あとホットサンドメーカーが人生で初めて欲しくなっている。

猫の瞳と食欲(病院後)

昨日の夕方、子猫がにゃーんと高い声で鳴きながら病院から帰宅。術後だしなにも食べていないし、目がいつもより鋭い。やっぱり色々考えた話とはいえ、この瞬間は特にごめんねと思う。そしてここまでは先住猫の去年と同じ様子だ。

ただ違うのは、先住猫はむさぼるように、数時間の空白の空腹を埋めるべく食事を心待ちにした。出された食事は当然平らげ、特別なおやつもガツガツと食べた。それが今回の子猫は食事をとる気もなくなってしまったようで、フード入りのお皿を近づけても口すら開けようとしなかった。しゅんとしている。とは言え直後に特別なおやつだけはしっかり食べたので完全になにも食べていないわけではないが(すごいな、特別なおやつ)、おやつ以外の食事にはまったく手をつけない。胸が痛む。

おおきな三角の、猫の別室のようなもの(呼び方が分かるまでトーテムポールと呼んでいるが、絶対に違う)の一番下に隠れて出てこない。本猫の色がグレーなので影と同化して夜の闇のように見えなくなってしまう。こんなことはあまりなく、楽観的な性格だと思っていた妹分の猫、今日がきっと生きてきた中でかなり衝撃的な一日だった。人間に置き換えても、それはもちろんそうなのだ。

そのまま夜まで食事はとらず、ただしベッドでゴロゴロと言いながらは寝た。辛そうなほうのゴロゴロではなさそう。当日にふつうのゴロゴロが戻ってきたことに驚き安堵する。先住猫のゴロゴロが復活したのは翌日だった。鋭い目つきも、このまま戻らなかったらどうしようと思っていたが翌日にはいつもの瞳に戻っていた。子猫もそうだといいけれど。

そうだよな。わけもわからず病院に連れていかれて知らない人に麻酔と処置を施されて、なにも食べられず、信頼できたはずの飼い主はなかなか戻ってこない。もしかして最初からこれが目的だったのか、ぬくぬくさせて安心させておいて売り飛ばすのか(?)、またどこかに連れていかれるのか、などと誤解して人間不信になってしまう猫もいるかもしれない。野良猫時代にもし嫌な記憶があったならそれを思い出してしまう可能性もある。そして勝手ではあるが二度と懐いてくれないのではないかと人間も不安になる。

 

今朝の子猫。まだゆっくり探りながらの歩行ではあるが、昨日より調子が良さそうだ。朝はお肉を食べ、先ほどついにカリカリ(チョコクリスピーに似ている)も食べた。目尻もつり上がっていない。少なくとも飼い主を断固拒絶、この世界を断固拒絶という雰囲気ではない。よかった。

お願いした病院の先生はおそらくかなり良い腕の先生であり、先住猫のときも、もっと言うなら先住犬も同じ先生にお願いした(先住犬の際に感動したのでその病院以外は考えられなかった)。傷も小さく、少し経つと全然目立たなくなる。先住のふたりは傷がどこにあるのかもう分からない。

ちなみに先住猫の場合、翌日には元気に歩き回る体力も復活し、というか当日から動き回ろうとして慌てて止めたし、食欲もまったく落ちず、かなりの早い段階でいつもの通りになった。彼女は生の始まりがそもそも飢えにあふれていたから、病院よりなによりもしかしたら「食事がとれなかったこと」に怒った結果の鋭い瞳だったのかもと思うほど。そう、保護した日も病院の先生がびっくりするほどにものすごい勢いでフードにがっついていた。彼女は食べることがとても好き、というより、食べることが生きる上でとても重要であることを本能的に分かるしかなかった。

 

まあもちろん純粋に食べるのが好きな個性もあるだろうけど、というエピソードも少し書く。

昨夜、いつもと違っておとなしい子猫の元に向かった先住猫。遊び相手がいない。子猫がいる部屋の前から動かず、じっとドアの下の隙間の明かりを見ている。

「心配しているのだろう…優しいな…少し中に入れて、猫同士、目だけで会話させよう」

そうしてドアをそっと開け真っ先に目に入るは体を丸めてじっと回復を待つ子猫、ではなく、テーブルの上の、子猫が口をつけていないフード入りのお皿だった。

そうだった。

「にゃー!にゃああー!!」

フード入りのお皿の前へ瞬間移動しようとする先住猫、慌てて阻止する私、ここまでスローモーション。もしかしてあなたの目当ては最初からそのフードか?

「子猫を心配しているんじゃないんかい」

ずっこけそうになるも、さすがにそれだけじゃないよと心を読んだらしい先住猫、子猫が寝ているベッドをくんくんとして、でもそれ以上は近づかなかった。今日は遊ぶ日ではないと分かっている。子猫が帰ってきた直後は、じっと子猫を見たあと自分の鼻を子猫の鼻に近づけ、次に耳の近くをなめていた。なぜ耳だったのだろうと検索をかけたら知恵袋の回答が「不適切な内容が含まれている可能性があります」とフィルタリングされていた。ないよ。猫だよ。

 

で、いまの子猫。キャットタワーの丸い穴みたいな場所(呼び方が分かるまで温泉、子猫の湯と呼んでいるが絶対に違う)で光を浴びながらすやすやと寝ている。ますますいつも通りになってきた。よかった。

 

 

ところで、数人にしか知らせていないこのブログが1日で約200アクセスを突破したのがいよいよ分からない。まじで特に目的のない日記なのに大丈夫ですか。

顔も素性も知らない女の日記にどうたどり着いたのだろう。はてな経由なのかな?アクセス数を気にしない日記のつもりだが経由が気になりすぎてGoogleアナリティクスを設定する矛盾がさっそく生じた。ちなみに、はてなアクセス解析にはたまに自分がカウントされるバグがあるような気がして(軽く検証した)、私が190回ぐらい叩いたのかもしれないと記憶をたどり始めている。あながち冗談でもなく、推敲するときはたぶん人がびっくりするぐらいには文章を読み返しているので。それと自分のIPアドレスをフィルターで除外したのに除外されずカウントされてしまうのはGoogleアナリティクスのアップデートゆえですか(あとで調べる)。

ネットの海は広く、どこにも終わりなんてないような気がしてしまうね。

猫は手帳を持っていない

子猫が病院へ行く日。そわそわして休日の二度寝という醍醐味は置き去りに、いつもより早く目が覚めた。

麻酔ですっかり眠っているうちに終わるとは分かっていても、自分が経験していないことをまだこの世界に1年も存在していない小さな動物が経験していく複雑さ。

同時に、「明日は手術か」と不安やドキドキ感を覚えるのは人間だからだな、と思う。たぶん当の本猫は、明日がその日ということが分からない。たぶん分かっていないはず。いや、だからたぶんだけど。

人間側が「明日は頑張ろうね」とか不安そうな表情をしていたらなにかを察することはあるのかもしれないが、私たちは極力そういう素振りを見せないようにした。

いつも通り。ただ少し、翌日の朝から夜までが違うだけ。なはず。

 

予測ができる、できてしまうことは人間特有の特技とでも言うべきか。明日なにがあるかうっすら分かっていることのネタバレのメリットと代償。そんな日ばかりではもちろんない、予測不可能な日も多いは多いけれど、古くは明日から幼稚園、明日から2学期。明日はテスト、明日は注射、明日は誕生日、明日はデート、明日は推しのライブ。さまざまな明日に想いを馳せて暮らしてはきた。不安になったり期待を持ったりするのは「分かってしまう明日の予定」が、人生のどのタイミングでもそれなりにあるからだ。

猫や犬は─もしかしたらそんなこともないのかもしれないが─人間が極力「なんともないよ」といつも通りに過ごしたままとして、明日どんなイベントがあるかを予測できるだろうか。

大半は緊張も覚悟もする時間もなく、淡々と事実に向き合わざるを得ない。ほぼネタバレのない生き方。ものすごいことだと思う。今年やってきた子猫も、1歳になった先住猫も、10歳になった先住犬も、私よりさまざまな適応力がある先輩だと思っている。

 

とは言え猫や犬が「未来を予測できない」とは、私は言っていない。これまでの私の体験からして、どう考えても「時間」のことは分かっていると思うからだ。朝は規則的な時間(とても早い)に鳴いたり人間を起こしたりするし、だいたい同じ時間に食事がしたいとアピールしてくるし、だいたい同じ時間に外を観察したりルーティンをこなし、だいたい同じ時間に寝床に向かうのを良しとしている。

もしかしなくても人間より時間の感覚が鋭い。動物にしか見えない時計がどこかに存在しているのではと思ってしまうが、空の色や空気や腹の空き具合で判断しているのだろうか。愛猫の黄色や緑がかった瞳、愛犬の黒目がちな潤んだ瞳には毎日がどう映っているのだろう。今朝の先住猫は庭のある一点をずっと飽きずに見つめていた。同じ方角にピントを合わせてみると、少しだけ朝の光の輝きが増したように思えた。

昨日まではわちゃわちゃとつるんだり取っ組み合いをしていた仲なのに、妹のような友達のような、もしくは「偶然いつも同じ場所にいる似たフォルムの個体」のような子猫が一時的にいないのは、なにか考えるところがあるのかもしれない。またはなにも考えていないかもしれないが、いないときは普通だったのに、いるのが普通になると途端に空白の空間を寂しいと感じる。感情も景色も。それも人間特有のフィルター?猫は忘れるとも言うけれど、子猫はすぐに帰ってくるからね、逆に寂しい景色をはやく忘れてほしいと思う。子猫が帰ってきたらおいしいおやつを特別にあげよう。もちろん全員に。

 

 

好きなブロガーの方が期間限定で毎日500文字程度の日常日記を書いており、触発されて「よし、サクッと書くぞ」と書き始めたが全然1500文字になってしまった。こんな日もあるが、基本は気楽に定期的に日々の出来事を文字に残していきたいと思う。

宙に浮いた思考たち

ぼんやりとしたエッセイや言葉を書ける場所がほしい。

やっぱり、と冒頭につけてもいい。

書き途中でもなんでもいいから、

散文を、なにも考えずに推敲もせずに

頭の中を言語化できる場所が、やっぱりほしい。

 

何気ない喜びや悲しみをいきいきと残したいな。

 

 

最近思うのは、人は平等に歳をとるということ。

もちろん見た目や気持ち、いろんな力や個性で差は出るにしても

時間は、ここでも「やっぱり」と使いたいけれど

平等に流れてそこに存在している。

 

ずっと今がいちばん幸せなのだろうなと思う。

なんて矛盾な、でも長く生きていったなら

きっとなぜかそう思ってくるだろうから。

 

平等に歳は流れていくのに

だけどたまにさ、自分がいくつなのかよく分からなくなる矛盾も

あるんだけどね。

気を使いすぎる大人にも、知らないことに目を輝かせる大人未満にも

どちらにもなれない中途半端さを抱えている。

 

 

あと最近ぼんやり思うこと、その2

欲張りだなんて思わなくてもいい。

叶っても叶わなくても、自分の頑張りとも日頃の行いとも

なにも関係がない、なにも結びつきがない事象だって

ここにはたくさんあるのだから。

 

 

今までやってこなかったから、頑張ってこなかったから叶わなくて当然だと

物分かりのいいふりをしなくても別にいいかもしれないということ。

自分を落として人の生き方を応援することは別にしなくてもいい。

 

どちらも祝福されてここにいるのだ。

 

そう改めて気づいたときから、どきどき、びくびくしながらも

自分の贅沢な気持ちを許すようになった。

体験というより思考に近い。

たとえこの先予想外にどんな素晴らしい出来事が待っていようとも、

「私はいいです」と断らない勇気とでもいうのか。

 

楽しさを肯定し、贅沢を受け入れるレッスンのようなものですね。きっと。

 

 

とんでもない罪を背負ったことはたぶんないのに、

 

罪滅ぼしだから、これは

 

と、悲しいことやぽっかりした日に辻褄を合わせようとするのが

なぜか人生の中で当然だと思っていた。

たぶんよく考えるとそれも罪滅ぼしでもなんでもなく

ただ悲しくぽっかりとした出来事があっただけだったのに。

 

もちろん、これは良くなかったな、

もうしたくないな、と心に決めた瞬間は

物心ついた頃から数えるとそれなりにあるし、

そのたびに反省もする。

無知や意識の欠如は時として残酷に

誰かに迷惑をかけてしまう。

 

でもそれにしたって、なんでも悲しいことを過去の自分のせいにしすぎだろう、

それでは疲れてしまうだろうということだ。

紐付けすぎると、偶然つらいことがあっただけでもそのすべてに意味がある、過去の自分の行いがすべていけないのだと思ってしまう。

世の中すべての出来事が、「そうなってしまう」。

それはとても恐ろしいし、失礼なことでもあると。

 

 

なんでも手に入るわけではないけれど

謙虚がいちばん素敵だけれど

謙虚とあきらめと言い聞かせはそれぞれ違うから。

 

例え話なら─誰かの計らいか、あるいはなにかのギフトでとてもおいしそうなアイスクリームが目の前に並んでいて、好きなのを選んでよ、と言われたとする。

その場にいる大半の人は喜んでいて、自身だって本当はアイスクリームが好きなのに

目の前にある事実が贅沢すぎて申し訳なくなってしまって、

「私はアイスクリームがふさわしい人間ではない」と誰に言われたわけではないのに結論づけ、ひとりだけなにも食べずに部屋に行き、そして勝手に落ち込むような感じ。

 

おかしな話だけれど、そんなコントを真剣に、それがむしろ誠実だと(これから幸福感を得るためのパズルのピースだと)信じて繰り返しているのが私だとしたら?

 

幸福感を得る、って何気なく書いたけどいろんなことに当てはまってなんだかしっくりきた。

幸せになる、という表現にはいつも少し違和感が(めんどくさい人間であることは承知で、言いたい雰囲気はもちろん分かるとも補足して)、というか、その意味をなんとなく紐解きたくなるのだが

きっとそれも「幸福感を得る」の積み重ねなのだろう。

その瞬間がより多く降り注ぎ、そして実感できる状態を指すのかもしれない。

 

私はいつだってなにかが足りないかもしれないけれど、振り返ってみれば案外そんなことはないし

何十年も経ったあと、過去になった今が幸せで仕方なくなるのだから

そういう意味で「ずっと今がいちばん幸せなのだろう」と書いた。

 

やっぱりきっと、今もこの先も幸福感を得る瞬間がある。

それでもいいんだよね。

誰に許可を取っているのか知らないけれど。

 

 

アイスクリームが食べたかったら

ちゃんと食べていいと言っていたい、今からでも。

頑張ったご褒美でもいいし、

別に頑張らなくても食べていい。

自分が望むのであれば。

 

 

頑張りがどうにもならない偶然なんてきっとたくさんあるのだから、せめて、せめて やってきてくれた喜びやチャンスは

溶けてしまう前にスプーンですくえるように。

 

ねこ、育つ

愛猫が推定1歳になった。
去年6月の保護時期に生後1か月半ぐらいと言われていたので、GWを誕生日に設定している。

去年は連日降る冷たい雨の中、明らかに生死の境を彷徨っていた飢え寸前の野良猫。

当時から長毛の傾向があったが、抱き上げると毛の中身はほとんど骨の状態で、柔らかくはなくごつごつとしていた。悲しかった。

(ただ、発見当日からフードを一心不乱にガツガツ食べていたのでホッとしたのを覚えている)

片目も目やになどで閉じかけていたが、発見が早かったのが幸いか、すぐにくりくりの瞳が復活したのは安心した。

 

 

今は抱き上げてもごつごつした感じはなくなり、ふわふわに、元気に大きくモフモフの猫に成長した。

キッチンとあぶない場所以外はすべて彼女の部屋になる勢いで、自由な暮らしを満喫している。と思う。

食事、寝床、遊び場、すべて保証されるかつ家賃のない、破格の物件だと思う。

 

特にふかふかしている場所がお気に入りのようで、
私がソファに座っている際にも何か言いたげにこちらを見ていることがある。
そこでふと席を立ってみると、同じ場所にスタッと(やっと空いたよと言わんばかりに)腰掛け、丸くなったりする。
あけますよ、あけますって。

 

かと思えば、こちらがリモートワークに集中しているといつのまにか横に来て「にゃあ」と鳴き、しばらく離れずゴロゴロしているときもある。
え〜可愛いねえ〜と、かまいすぎるとまたシュタッとどこかへいく。つれない。


撫でたり抱いたりしているときも、しっぽをダンッダンッと床につけて、「もうかまうな」と伝えてくることもある。

そんなときは名残惜しいが彼女の想いを尊重する。

 

これが猫、だ。
色んなところで見た通りの、紛れもない猫の行動そのもので 楽しい。

 

突然棚の上でスンッとしたりゴロニャゴ言いながら眠るのも面白いし、ほんとうに猫は高いところに行くんだなあと。

カーテンの留め具(?)に興味を持ちすぎて、そろばん状態にカタカタしすぎて

我が家から一部のカーテンが撤去されたりもしているが まあ窓を閉めれば分からないから大丈夫だ。


一度でも猫を飼ったことのある人なら、猫は家に「ずっといる」と感じるのではないかと思う。
そこにいても、遠い未来になって姿が見えなくても、どこかにいると思うんじゃないかと。
もちろんそれは犬も他の動物もなのだけれど
この家に足あとをどんどん残してほしいと思うのだ。

 

愛犬とも基本は関係良好。
ただ、どうしても妹的立場である猫のほうがちょっかいを出しがちなので、
姉的には、やれやれと付き合っているときもありそうだけど。
ふたりとも立派なしっぽを持っていて、後ろ姿もほんとうの姉妹のようである。

 

近くで猫の大きな鳴き声がしているな、と

自宅の裏側を散策したのが6月中旬。

最初猫の姿を確認したときは、まだ体力があったからかすぐに逃げられてしまう。

 

そこから数日、様子を見に行ったり気にしたり、保護したくも逃げられてしまう日々が続く。

毎日雨、雨、鳴き声が聞こえなくなってきていよいよ不安が募るも、なぜかぼんやりと「あの猫の名前は『みかん』にしよう」と決めたその日に、ようやく保護に成功する。

というより、弱って動かなくなってしまったところを見つけられた。

 

ほんとうはいつ生まれたんだろう。

きっと去年の今頃は母猫に育てられていた。

でもそこからは何らかの理由ではぐれたか、ひとりぼっちになり

人の助けが届きにくい緑の中で、朝も夜も雨を凌ぎながら、食べ物もない中ひとりで生きていたのだと思うと

考えただけで涙が出てくる。

 

生まれたスタートがいちばん過酷。

これからはある意味楽勝な人生でいいよと、楽しいことしかない猫生を送ってほしいと願う。

 

白いモフモフのところつい触りたくなっちゃってごめん、たまには許してね。
これからも元気に健やかに育っておくれ。

連休前の内省日記

やっと仕事が終わり、明日から5連休。大事なのでもう一度言うが、5連休だ!

 

ずっと毎日めまぐるしく日中全然休む時間がなく心が壊れそうだから(というか壊れた)、5日も仕事がない日がやってくるなんて本当に嬉しい。
とはいえ実はまだたくさんやらなければならないことはあるからどこかで作業をする可能性もあるが、今日絶対マストのタスクは一応終わったのでそれだけでも良しとしている。際限ないから。きりがないから。やろうと思えばいくらでもやれるから。

 

 

私の尊敬する人が「間違ってもいいから決めること」と言っていた。正しいと思う。それなのに私はそれがなぜか、なかなか、とてもできない。精一杯の頑張りでなんとか決めることもあるが、その後、どっと疲れるし不安が押し寄せる。自分の判断で取り返しのつかないことが起こったら恐ろしいと、まず考えて100通りの不安を見つけようとする。

 

私は情やメンタルに押し流されがちなところと、やるなら完璧を求めがちな面がある。それは優しいだとかプロ意識は高いなどと言われる長所にもなるが、優柔不断で自分が背負ってしまう、あるいは誰かになんとなく投げてしまう、さらには作業や着手が遅かったり周りが見えなくなる欠点でもあると思っている。

あと、やるなら完璧を求めるがやらないものは「なんにもできない」という欠点もある。ほんとうに。できないものは人に任せきりで、たまに自分で解決しようと思ってもできないし何ひとつ成長が見られない。
もしかすると隠れADHD脳みたいな感じなんじゃないかと思っている。極端に要領が悪いというか、できないことが、極端にできない。

ADHD脳がダメとか劣っているということではなく、できない理由が分からないというか、本人は手を抜いているつもりはまるでないのにこんなにできないなんておかしいなと自分でも思うから、なにか脳に違いがあると解明されたら少し落ち着くかもしれないと。
うっすらと、でもはっきりと、まんがで分かる〜系のハウツー本を読んでも「これって自分だよな」と思うこともあったから。
情報整理というか、「ざっくりこなす」ことがなぜかとても苦手だ。時間に間に合わせることも苦手だし、逆算や見積もりも甘い。

肝心な場面で大遅刻するようなことはないが、ちょっとした待ち合わせではいつも「本当はもっと早く着くはずだったのになんでこんなにいつもギリギリなんだろう」と自己嫌悪に陥る。

あとこれは関係ないかもしれないが、極度の方向音痴だったり、ピラティス教室でもひとりだけ先生の言っている体の向きやポーズがなかなかできないこともある。頭が混乱してしまうのだ。分からなさすぎて、シルクサスペンションという布のようなものを使うレッスンではひとりだけ布から転げ落ちた。そんなばかなと、天然で許されるかどうかも正直怪しいと思う。昔から、空間認識能力みたいなものが薄い気がしている。


ただし全てができないわけではなく、好きなことは異様なほど集中できたり力を発揮したりもする。スマホは毎日10時間ほど仕事も含めて見ているらしいし(ただし、やめたいです)書き物も何時間でもできるし、食事も忘れて仕事や趣味に没頭することもある。

 

文章にすると整理できるし、ケアレスミスなどはむしろほとんどなく得意分野なので、ここは当てはまらないかもしれないけれど(ADHD脳の人はミスをしやすい、みたいなことを読んだ)。

オタク気質や繊細気質のように、脳の気質というのもあるのだろう。まだあくまで自分にはその傾向がありそうだなあと感じる段階だが、さまざまな気質とはうまく付き合っていきたいと思っている。


が、とにかく、ああコンプレックスがいっぱいだなと感じる。なんでなのだろう。本当は自分だって色々なものを持っているはずなのに。

 


昨日は雨の音を聴きながらお風呂に入っていた。
雨の日のお風呂がやたらと好きだ。
外では困難な雨が降っているのに、私は規則的な音のリズムを感じながら心地良い温度のお湯に身を委ねている。ここは守られているなと感じる。
その規則的な雨のリズムを聴きながら、「自分が持っているもの」を思い出していた。

 

家族がいる。犬と猫がいる。みんな元気だ。
帰る家がある。仕事がある。お給料がある。

行きつけのお店がある。みんな良くしてくれる。
文章が少し書ける。校正が結構得意。

優しいと言われる。まじめであまりズルができない、つまり誠実。

自分の見た目が嫌いじゃない。おしゃれも好き。それなりに努力もしている。

 


「こんなに『ある』のに、なんで自信がないのだろうね」
よく言われる台詞を自分自身で発してしまう。

 

 

何かができても自信が植え付けられないし、何もできないと感じれば余計に自信が失われる。
開放感のある連休前に書きたいこととはだいぶかけ離れてしまったが、これは私の大きなテーマ、
どうしたらこのままで、自分のまんまで、自信が持てるようになるのかな。
5日かけてその答えを探すつもりはない(せっかくの連休が終わってしまう)から、でも片隅で覚えておこう。

 

 

去年と同じく特に予定のない緊急事態な連休になるけれど、明日はでも楽しみな予定がひとつあるのだ。
15年以上の付き合いになる仲良しメンバーと、久々のオンライン飲みが開催される!
超嬉しい。どんなときでも心を許せるメンバー、そして忘れないでいてくれるメンバー。
数日前にLINEグループが活発に動いていたことは察していたが、日中いっぱいいっぱいすぎて一人だけ既読が遅れてしまったことを反省している。
でもさすが長い付き合いのメンバー、私が「すませぬ、激務すぎて自分の人生意味わかりません返事遅れました」的にそれなりに病みがちなLINE返信をしたのに「なんか大変そうだね、がんばれ😺」とサクサクかる〜い返信が来た。それに救われた。

一瞬「そんな軽い、猫の絵文字のテンションじゃあないんだよ」と言いたくもなったが、みんなに深刻になられていたら私も余計に深刻になり気まずかったかもしれない。

ほらまた、「ある」んだよ。「私には友達がいるんだ」。大好きな漫画の引用だけれど。

 

思わず笑いながら自分の状況を説明したくなる。そう今のこの生活は、本当は笑い飛ばせるぐらいに、修正がきく。

人生に余力のある状態を取り戻したい、ここで絶望してはいけないんだ。

 

 


だから連休だってば!
明日はオンライン飲みを全力で楽しもう。何飲もうかな。