日なたのアイスクリーム

オタク気質30代の散文裏ブログ。日常での気づきやオチのない日記、犬や猫のことなど。

次の電車を待つ前に

混雑した駅のホームでした会話、なんだか迷いに対する答えみたいだなって思い出してる。

 

「混んでるね。まあ、次でもいいけど」
「次の電車も、その次だって同じだよ」
「そうかな。じゃあ、これに乗るよ」

「      」

 

まあラストは聞こえなかったんですけど、

発車のピピピにかき消されて。

大してバイバイも言わないまま乗り込んで、

私は何に急いでいた?

 

その時間帯はしばらくずっと混んでるよ。

次も、その次だって同じだから

いつ乗ってもいつ選んでも、同じでは?

あんまり迷って選びすぎても意味ないからね。

 

でも、もしかしたら違うかもしれないじゃん?

後から来た電車が偶然ものすごく空いているかもしれないし。

 

でも、帰る時間は遅くなるよ?

同じ確率で「後から来た電車のほうが混む可能性」もあるけどいいの?

 

 

ああ、これってなんのデジャヴか思い出したよ。

まだ見ぬ最新機種のガラケー携帯を待っていた「あの頃」だ。

 

『ケータイ待ち→まだ会っていない誰か』

ってタイトルのブログを、当時書いたんだ。

携帯電話を変えようか迷っているけれども

現状のラインナップでもまあこれがいいかな、という機種もあるけれども

「もう少し待てばもっといい機種が発表されるんじゃないか」と購入に踏み切れずにいる私に

母親が「もっといい人がいる、いい会社がある、みたいな雰囲気で語るなかれ」と突っ込むオチだったはず。

 

 

まだ会っていない、見ていないなにかと

本来比べなくていい、というか

比べようがないのにさ。

そんな簡単なことでも

ちょっと生きている時間と体験が増えるだけで

合理的に、データに基づいて、

まだ見ぬ芝生はより青く見え、

─いや、欲が出ているだけか。

 

 

気まぐれなのでいくつものブログやSNSアカウントを持っており

そしてふしぎなことに、書く文体と人格もプラットフォームによって多少変わる。

性格は多面だと思っていて、そのいろんな面を

いろんな場所でちょっとずつ出しているのかな。

 

ここは今は、感情のままというより…

や、まだ分からない。

ドラマチックになりすぎない、俯瞰した捉え方ができる場所も

また必要な場所だからね。

 

本当に自分勝手で、感情の整理がつくまで

たいてい口数が少なくなるし、人に連絡するのを忘れてしまう。

人としっかり話せない、話せなくなってしまう。

正確には、なにも喋らないわけではないのだけれど

頭の中は常にいろんな考えが巡っているのだけれど

言えない。

できるだけできるだけ結論を引き延ばして、

それまでなんてことない話題だけでごまかして、

なにを喋ったかなんて。

 

肝心なことはなにも話していないとき

私はきっとここに来る。

 

本当は思っていること、話したいこと、

やり直したいことがいっぱい。

 

でもきっと、いろんな人がそうだね。

 

昔の知り合いは「言語化する途中なんだね」

なーんて言ってくれたっけな。

そう捉えてくれるのが当たり前と思ってはいけないからさ、

ちょっとずつ 待たずに伝えていかなければね。

乗り込む電車は

偶然でも、いま選んだ場所だからね。

心を観察するピラティス

ピラティスに通い始めてもうすぐなんと2年経つのだが、

その2年でなんと5、6キロは痩せた。痩せましたよ。

ちなみに先日受診した人間ドックにて、3年前から比べると7キロも落とせたことが発覚し

「これは意図的に痩せたのか」と2回ぐらい口頭確認された。

まあするする落ちたのは食事管理を始めてからなので

ピラティスだけの成果ではないとは思うけれども

それでも、それでも、すごくない?

一般的にはまあまあ痩せにくくなると言われている年代としては。

 

まさか自分がちゃんと、こんなに続けられるとも思っていなかったから

未だにインスタのフィードには載せていない。

(すぐにやめたら恥ずかしいかなと思っていた。ストーリーでは記録代わりに投稿しているが)

 

でも、さすがに2年経つから

自分を信じて載せてもいいかな。

 

みんな!ピラティス最高だよ!

 

 

元々は石田ゆり子さんが自身のエッセイで

「思考しながら体を動かすのが私には合っている」

「生きることが楽になる」

とライフワーク状態のピラティスの話をされていて

その文章がとても印象に残った私は

「運動するなら、したくなったらピラティスだ」

「ゆり子が言うなら大丈夫(?)」と

お守りのようにやりたい気持ちを隠し持っていた。

いや隠し持つ前にすぐに始めればいいのだが

やっぱり教室を探したり入会となると、少しハードルは上がるのと

「まさか自分にできるわけ、続けられるわけないよな」

と、自分で自分を諦めてしまうというかねえ。

 

しかし2年前、ある縁で素敵に自身を撮影いただく機会があり

撮影の日まで自分なりに頑張って身なりを整え挑んだはずだったのに

とあるオフショ的な写真を見て

そのたくましさに愕然とした。

実際に誌面で使用されたカットは、とてもとても

実物より素敵に撮っていただいているのに

偶然の、不意打ちでのスナップでは魔法が解けており

私はごんぶとゆるキャラ、またはきっぷのいいアネゴにしか…

いや、ゆるキャラも可愛くて必要だし

アネゴはキャプ翼以来欠かせないキャラクターだが(?)

ワイは…私は着たい服や可愛く着こなしたい服、

自分がこうありたいというイメージがあるのだが

それは現状ゆるキャラでもアネゴでもなかったのだ。

 

「言うてもそこそこ痩せていて、服も綺麗に着れている」

というのは思い込みで

脳内補正がバリバリかかっていたことを

写真で知ってしまったので

 

「ここらで引き締めなくてはならない!!もうやる!!」

とついに一念発起。

とほぼ同時に近所にピラティス教室ができたと知り

10月まで入会すれば入会金無料なんて偶然が訪れたのが転機でした。

たしかほんとに10/31とかギリギリに入会した。

むちむちに気づいた撮影は10月中旬だったので

タイミングって面白いな。

 

今ではオーナーさんやトレーナーさんに

「ほんとに痩せたね!変わった!ピラティス体型だよ!」

「これ以上痩せなくていいよ」

と言われるまでになりました。夢みたいダナ…

というか未だに信じられないですが。

だって私だよ?

 

 

入会してさほど経たない頃、形から入るために買った

「なんだかトレーニングしている人が着ていそうなカッコいいウェア」は

背中の部分が網目状のバッククロスになっており

Mサイズだから大丈夫だろうといざ着てみたら

…まあ、着られはするのだが完全なボンレスハム

網目部分から肉がはみ出た状態だった。おいしそうだな。

 

恥ずかしくてそのウェアは着画も撮らずにお蔵入りとなったが

今となってはなぜ着画を残しておかなかったのかと後悔が残る。

 

数ヶ月後、なんとなく再度袖を通したら

ハムの部分が明らかに減っていることに感動して

体型測定の意味も込め、こっそり家でそのウェアの着画を撮るようになり

いつのまにかレッスンでそのウェアを着ても恥ずかしくないほどにハムはどんどん消失していき、

今現在はむしろMサイズがゆるくなりあまり着る機会がなく、

ウェアはSサイズで揃え直したのだから。

 

こっそり今日の背中。

まだまだとは思っておりますが。

 

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バッククロスのウェアはこれ。

5月の写真ですが、おお、なかなかすっきりしているな。

ほんとにほんとに最初は全部ボンレスだったんですよ…信じて…

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とは言え入会してしばらくは、

いや今も出来ているとは言い難いけれどもほんとに劣等生で

トレーナーの方々の言っていることや

体の、骨の動かし方が全然理解できず

レッスン生の中で私だけ変な動きを繰り返したり

右と左が咄嗟に分からずみんなと逆向きで進行しそうになったり(これは今でもある…)

シルクサスペンションの布に絡まって落ちたりなど散々な感じだったけどね。

不思議と辞めようとは思わなかったけど、

素質ないなあとは何度も何度も思った。

あるトレーナーさんには

「◯◯さん全然違う!」

「また◯◯さん!」

「◯◯さんってほんと面白い〜w」

とグループレッスンで名指しで教育を受け落ち込んだりもした。

人生全体に言えるけれど、

面白くしようとして間違えているわけでは

残念ながら、決して、ないのだ。

(相性などもあると思うので、なんとなく今はその方のいる曜日は避けるようになった…)

 

それでも2年程度経つと、こんな運動センスなし劣等生の私でも

なんとなく「ここに効かせるにはここを意識していけば、あるいは力を入れなければいいんだね」

と、レッスン中にふむふむと考えながらチャレンジができるようになっているのだから

ただただ続けるだけでも出会える新しさがあるのだなと嬉しくなってしまう。

それに、私のように

何が何だか分からんし出来てはいないけどとにかく続ける!なだけでも、

いつのまにか「ピラティス体型」と言ってもらえるまでに変われるということは

素質がある方なら、短期間でもっと結果が出て変わるのだろうなと。

それも楽しいだろうなあ。

(ちなみに大体週1回、1〜2時間やっています。食べすぎたときは家トレを追加。)

 

レッスンではとにかく体やマシンに対してだけ向き合えばいいので

日頃のいろいろを忘れて集中できる良い機会にもなっているのだが

たまに雑念が入ることもあり、そんなときは

「あ、思ったより私、あのこと気にしてるんだな」と自分の心に驚いたりもする。

 

指示通りに体を動かしながらも

「どうしてあの日あのときあの場所で…」と

なにも関係ない人間関係のモヤモヤが浮かぶようなときは

たぶんかなり疲れていたりストレスが溜まっている。

そんなときは念入りに、体を充分に伸ばしてあげたほうがいいなと。

繋がっていると言いますしね、心身は。

 

筋肉や骨だけじゃなくて、心身全部のバランスが浮き彫りになってくるというのか

体の動きを観察しているようで

実はこのワークでいちばん観察できるのは

心の動きなんじゃないか?と思ったりもする。

 

 

冒頭で少し触れた人間ドックでは、医師に

「ちょっとこのあたりがまっすぐじゃないですね」と

背骨下と首の骨に関しても指摘を受けたので

今日のプライベートレッスンでは背骨の下部を意識して動かすトレーニングを追加いただいた。

メニューをいくつか実践するだけで 1時間後には体の中心でスッと立てているような、

背骨とお腹を使えて軸がしっかりしたような感覚になるからほんと面白いな。

 

背骨、レントゲンで診たときはそこまでゴリゴリに曲がっているわけではなく

(以前のレントゲンもよく見たら曲がっていたので悪化はしていなさそう)

下にいくにつれてゆるーく、腰椎あたりの部分が少し曲がっているのかな、という程度だったけれど

それが先天性なのか生活習慣なのか

軽い側弯症(思春期のときに発症する女性もいるらしい)なのかはまだなんとも判別しづらいとのこと。

ピラティスを受けていても、先天性や側湾症の場合は完全にまっすぐにするのは難しいのかもしれないけど

ピラティスを受けているからこれ以上曲がることはないのではと期待しつつ

いずれちゃんと検査もしてもらおうかな。

 

という感じで、痩せたから終わり!ではなく

(ぜんぜん終わる気がしない。ずっと続けたい)

これからもピラティスを通して

自分の体とも心とも向き合っていきたいと思います。

ゆり子ありがとう。ゆり子の言う通りだったよ。

 

そして、私でさえもできるってことは

みんなできちゃうと思うので

もし少しでも興味があったらぜひ気になる教室の体験コースや

YouTubeで動画を観るだけでもいいのでぜひピラティスに触れてみてね。

私も家トレするときは大体「ピラティス 基本」「ピラティス 全身」とかでワード検索していろんな動画を観ています。

めちゃ分かりやすいのたくさんあってありがたい。

ただマットは実は上級者向けのピラティスなので、できればマシンピラティスも体験してほしい。ぜひ。

まだまだ語れるけど今日はいったんこのへんで。

誰といるときの自分が好きか それはジャッジが前提なのか(ちがう)

たぶん、基本的には誰といるときの自分もあまり好きではないし

むしろひとりでいるときのほうがまだ自分にオーケーを出せる。それが問題だ(盛大に冒頭で答えを出すな)。

みんな(とは?)のことは好きなんですよ!

ただ自分のことが好きになりきれない、

そういう部分がまだまだ無くせていないだけで。

 

単独で行動しているときのほうが、人に迷惑をかけない気がしてしまうからラクというか そんな感覚に陥ることも正直多い。

 

蒼井優の結婚前の発言で以前ちょっと話題になった表題。

そういえば私は逆なんだよな、と思い返す。

もちろん、恋愛でも友情でも。

(※親きょうだいの関係は除きますが、身内といるときの自分大好きィ!という感覚もあまりなく もちろん好きで感謝の気持ちでいっぱいですが。きっともっと時が経ってから気がつくことが多いのだろうな)

誰かといると、そんなに好きじゃないおかしくて無礼な自分が登場して暴走して

ひとりになると冷静に自分を取り戻したような気になり

安堵したり反省することなんてしょっちゅうだ。

特に文章を書いているときは、いろいろゆっくり俯瞰できるからいい。

これがなかったら人間的にまずいのではと思う。

 

きっと表題は「素でいられる、いい面もそうじゃない面も晒せる(晒しても大丈夫と思える)、取り繕わなくていい、受け止めてくれる、自分といることを面白がってくれるように感じる、だからなぜか自己肯定感が増すetc →あ、私あの人といる自分が好きかも。または好きになれるかも」

または「あの人といると、『自分の思い描く理想の自分』に近づけるかも」

そんな気持ちが含まれるだろうと解釈していた。

 

理想の自分に対するハードルが高いほど自分のことは嫌いになるから

「ま、こんなものだろ」と納得できるぐらいの理想でいい気がするが

それがなかなか難しいもので。

 

で、気になって蒼井優のインタビューを検索してみたら少し違った解釈だった。

「“誰を好きか”より“誰といるときの自分が好きか”」の本当の意味【蒼井優】|ウートピ

蒼井:本で読んだんです。私もそれを読んだときに、「なるほど」と思ってヒザを打って。それって恋愛に限らず、友人関係でも言えることなんですよね。

 例えば、友達と会ったり、人と会ったりした帰り道に、私は「今日の自分は好きだったか?」と自問自答して判断しています。それでいつも良い友達に囲まれているなあと思いながら帰っています。

——「今日の自分は好きだったな」と思うときはどんなときですか?

蒼井:相手に合わせて会話をしているのに楽しかったなとか。2人でキャッキャと盛り上がったときとか。

ストレッチもそうですが、前屈すると後ろが伸びている感覚のほうが強くて、限界に感じるけれど、限界にきたときにおなかの内側を縮める感覚にすると、もう一歩先に行けるんです。

それと一緒で、人間関係に悩んだときも自分の主観という視点を真逆に持っていってあげるともう一歩先に進めたり、いま固執していることがどうでもいいことに感じたりするんじゃないかなと。

——逆から見てみるんですね。

蒼井:自分を好きかどうかは、素の自分を認めてあげられるかどうか。大人になると、自分が楽しめているかどうか、認めてあげられるかどうかの基準が子供の頃と比べてまったく変わってくる。大人になった今は、その感覚でいいんだろうなという気がしています。

 

 

私は帰り道にだいたい自分に減点をしてしまうがなるほど。

そもそも蒼井優は「その相手に自分を認めてもらえるか」が基準や焦点ではなく

「その相手といるときの自分の振る舞いを、自分で認めてあげられる」ことを重視していた。

確かにそのほうが健全に自分を好きになれるよな。

しかし相手に合わせて会話しているのに楽しかったな、という気づきはなかなか興味深い。

そんな自分えらい!ってことかな。

そういう感じでもいいのか。

 

素の自分を認めてあげられるかどうか。

ほとんどの瞬間で

あげられていないなあ。

 

私がかろうじて自分を認められるかもな、と思う日は

たいてい相手からほめられたり、相手が嫌な気持ちになっていなさそうだと肌で感じたとき。

仮に自分が楽しくても、相手の様子が心から楽しんでいる感じでなければ 

そうさせてしまった自分のことは好きではない。

自分軸より相手軸に振り回される割に、

やたらと自分のことしか見えていないのだ。

 

 

いつも「ちゃんとした人の振る舞い」に憧れていて、

だけど大抵、それが明らかにできていないから

いつも夜中か翌日以降にひとり反省会をする。

何週間も経ってから「はっ、あれはやっぱり良くなかったかも」と

突然気になったりすることもある。

 

自分でも分かっていて、分かっているのになぜか

その場ではおそらく「不正解」な行動をとる。

あとから反芻すれば気がつくことも多いのだけれど、

時差がありすぎて直接言えないまま時は経つ。

おそらくおかしな行動をとったあと、

相手がそんな私にすっと呆れ、

または冷ややかな目で自分を見ているような気がして(※気がしているだけです)

瞬間、ああ、きっとまた間違っちゃったんだな、と悲しくなる。

 

萎縮なのか、緊張なのか、はたまた

ただの背伸びなのか見栄なのか

よく分からないのだけれど。またはぜんぶかな。

 

常に自分に自信がないからそうなるのか?

自信を持って話しているような事柄すら

実は自信がなかったりするが(ややこしい)

それでもちょっと自信が滲み出ちゃっていることもあって

ポジティブに饒舌になっているときは

「自分のくせに」と後から恥ずかしくなるし、

そんな自分がシンプルに好きではない。

 

 

かなり前、ある同性の知人と少し会うのをやめようと思ったことがあった(この日記を見るような間柄の人ではないので「えっ私のこと…」と誤解しないでね)。

その理由はとてもとても理不尽な、

「このままでいると相手も自分も嫌いになってしまいそうだから」というものだった。

 

相手は何も悪くないのにモヤモヤしている自分はなんて性格が悪いのかと悲しくなり、

そう思ってしまう自分を受け入れられなくなり、

心がどんどん重く底に沈んでしまいそうで

ならば会わないほうが、と飛躍する。

 

相手を攻撃したくないのはもちろんだけれど、

こう、なんて言うんでしょう

どんどん嫌なやつになる自分を見たくなかった。

 

相手がいるのに自分本位なんですよね。

そして、自分のことをあまり認められないのに

いっぽうで「嫌なやつになりたくない」ってことは

普段は自分をそこそこ「いいやつ」だと思っているとも言える。

それもどうなんだ。

 

あ、でもね、自分が好きな自分でいられるときもあるんですよ。

たとえば、推しや好きなものや好きなお店を紹介するときや、

購入したハンドメイド作品の作家さんに直接コメントを送るときなどは

相手や何かへの感情がほとんど混じり気のない明るいものだし

相手や対象が言われておそらく嫌な気分になることはないだろうと分かっているから好き。

安心して好きなことを好きと言える。

あとはバイト含め接客をしていた時代や、誰かの仕事のお手伝いをしているとき。

人と接する仕事ではなぜか自然に笑顔が出るしいつもより喋れるし、

お客さんが心を開いて?くれることも多い気がする。

けっこう商売の役に立てる気がするからそんな自分のことは好き。

ファーストフードのバイトも楽しかったし

洋服の販売で自分が着ていた服を買ってくださるときも嬉しかったし

音楽制作会社にいたときは、ライブやショッピングモールイベントの応援でお客さんと接することが好きで仕方なかった。

MIYAVIさんのファンの子(当時は仔雅と呼ばれていたはず)に「お姉さんと話せてよかった!」と言われたことを未だに覚えている。

 

そして、納得のいく文章を書けて、それを届けられて良い反応があったときも自分を認められる感じがしている。

誰かの喜びや彩りに少しだけでも貢献できたときは嬉しくなるし、

できるだけさまざまな角度から人が傷つかない文章を書きたいと思っている。

 

そう、誰かのために自分の特性を生かせて使えていると思えるときは 

ああよかったなあと幸せになるし

そんなときの自分はとても好きなんだよな。

 

通常の人間関係でそれが生かせない理由はなんだろう。

恋愛や友情では金銭が発生しないし(プレゼントなどは別)

利益のために自分の力を役立てることが第一なわけではないから

自分がそこにいる意味もないと思ってしまうってこと?

 

自分がいる意味を、誰かの役に立てるか、でしか判断できないってこと?

 

うーん、それはそれで真理だとも思うけど

そうか、私は本当はあの人たちの役に立ちたいのかもな。

でもそれはそれで「友人知人にジャッジされる」感覚が抜けなくなってしまうのでは?

むむむ、難しい(難しくしているだけです)。

 

 

誰かといるときの自分が基本的に好きではないのなら

やっぱりひとりでいればいいのでは?と思いもするけれど

まあ実際、ひとりで人に何も言われない、踏み込まれない世界もラクだから。

でも、ひとりになりすぎると傲慢な世間知らずになりそうで

傲慢な自分も好きじゃないわけだから。

 

じゃあ結局、関わるか、人と、と なるわけだけど

めんどくさいなー自分。

なんでなんだ。仕事で人と関わるのは、話すのは好きなのに

プライベートだと関係を持続させることにものすごく心を使い緊張してしまうなんて。

 

 

ひとまず相手にジャッジされていると思う感覚を、

そこが高得点ではないと友人にすら認められない(→そんな自分のことが嫌いで相手にも萎縮する)という思い込みを

なるべく意識的にやめていこう。

 

ふつーにパンを食べたりカヌレ食べたり

ふしぎな名前の店名に笑ったり

ドラマの感想をあれこれ交わしたり

道端で満月に気づいて立ち止まったり

そんな何気ない瞬間に、関係性に点数なんて付けられない。

 

または、どうしてもジャッジの感覚が抜けないのなら

もっとハードルを低くして

「別にダメでも命まで取られないからいいんじゃね?」と思うのはどうか。

それぐらいの雑さが私にはちょうどいいのかも。

ジャッジされてダメでも大したことはない、と発想の転換をするとか

ダメならこれから変えればいいんじゃね?と立ち上がるか。

(もちろん自分が悪いことなら直したいのでそれとこれとは分けて…)

 

相手からの合否や自分に対してダメ出しをしても、それが原因で私は消えたりなんてしないものな。

 

うん、まあ、それは最終手段として

メリットや評価なしでいられる、いてくれることを普段からもっと大事にできたらいいなと思う。

「わかるだろ。メリットなしで僕といてくれるとこさ」

という大好きなカレカノの台詞を思い出して終わります。

猫の見る / 景色は猫しか / 見ていない

うちの三毛猫は、特に窓の外の景色を見るのが好き。

どこに行ったかな、と見回すと

高確率でカーテンの裏にいて

じっと、ずっと外を見ている。

1時間見ているときもざらにある。

 


たまに人や猫が(!)通ったり、明かりがついたり

天気が変わったり蝶々が来たりはするけれども

ほとんど外の様子が変わらないときもじっと見ている。使命のように。

おうちを守っているのだろうか

 


誰も通らない、風で葉っぱがそよぐ以外は

なにも変わらないように見える景色を

すべてが変わったように眺めている猫を見ると

「この景色をいま見ているのは、

 世界でこの小さな猫だけなんだな」

と気づき、なんだか面白い。

もっとも、猫には私が気づかない、

なにか小さな変化が

見えているのだろうけれど。


目だけじゃなく、耳や五感でも見ているのだろうな。

 

 

先日数年ぶりに飛行機に乗った。

雲の上の景色はやっぱり幻想的で、

そんな綿菓子みたいな景色を見て

「犬と猫にも見せられたらいいのにな」と

じっと外の景色を見る光景を思い浮かべた。

この青と白の景色を見たらどんなに目を丸くするだろう、

キラキラさせるのかな、あるいは怖がるのかな、などなど。

 


私は気軽に(?)見ている景色を、

動物たちは一生のうち、見られるか見られないか、かもしれないわけで。

でも、一生かかっても私はあの子が見ている

あの景色のぜんぶを知らない。

家の外の、窓ひとつ分におさまる世界なんですけど

もっといろんなものを見ているのだろうな。

窓ひとつぶんの宇宙ってやつ。

 


1000倍ぐらい何かに気づいてる。

同じ景色を見られたらいいのだけど、

後ろから「何やってるのー」って覗きこむのも好きなんだ。

世界で猫しか見ていない発見の景色。

 

 

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猫の見る 景色は猫しか 見ていない / 2022.8.9

平穏なドアと倒れない木、それから愛、オザケンの魔法

いろいろあっても、ある程度心の平穏を保つことは大事だとも思うけれど

いっぽうで、悲しいときは悲しいと泣かないと

麻痺してしまうだろうに、とも。

(この場合の「いろいろ」は、人の生死に関わるような深刻なことは除いてほしい)

 

風が吹いてもしなやかに、

倒れない木のように

どっしりと構えておきたいものだ。

 

 

魔法のような小沢健二の2年越しライブ2DAYSを経て、本日は生活。

あの空間は確かにすべてが泣けちゃうほどに幻想的で、マジック。

なのにいつもの生活で必要な鍵を探し当ててくれたような不思議な感覚だった。

それと小沢健二のファンは、自分の感情を言葉に表すのにとても長けていると思う。

本人のインスタへのコメントを見て確信に変わった。

小沢健二が「ややこしい歌詞を書く僕」とか

「変な歌詞を」とか、自分のことがややこしいと分かっている発言をして

私はたいそう驚き、ますます好きになったわけだが

そのややこしい音楽を見つけた彼や彼女や私もまた、ややこしくて面倒くさくて

なにか違ってもいいから、自分の言葉で伝えたい人たちなんだなと。

なんだか嬉しい。

エンタメブログにも、またまとめるとして。 

 

生活に帰ったあと、少し驚いたことがあった。

完全にプライベートな話なので詳しくは割愛するけれど(なぜ?日記なのに)

知っている気になっていたさまざまな人のさまざまな出来事。

改めて、なんでも知っているわけじゃなかったことを思い出した。

たとえ深い話をしていると思っていても、温度感とか、タイミングとか、まあ、いろいろある。

私も仲のいい人でも、言っていないことはおそらくあるから。

ただ、意図せず知ってしまった場合。いつまで知らない気持ちでいればいいのかと迷うときはあるよね。

 

演技をしているんだ。あなただってきっとそうさ、と、椎名林檎も云っていた。

 

 

なにか変わったことがあると、

そしてそれが、自分にとっては少なからず驚いたり反芻するものだったりすると

無性に「変わっていなさそうな人」というか、「変わっていても変わらない人」の顔が見たくなる。

それはたぶん、馴染みの飲食店のドアを開けるときの感覚に少し似ている。

さらにその飲食店で大好きないつものメニューを食べて満足できれば最高。

 

自分の軸を持っている人、がそれにあたるのかな。

私もドアを開けたあとのいつものお店のように安心感のある存在になりたいと、定期的に思ったりするけれど

なっているのかな。どうなのかな。

割と変わっていないと思うんだけども。

それはいい意味で?どうだろう。

 

最近どう?と声をかけて、変わりはないよ、と返ってきても

いろいろあったよ、とか 実は…と返ってきても

フラットにその人の生活に寄り添えるような心を育てたいな。

嬉しいことは一緒に喜んで、悲しいことにはそっと寄り添う。

それは、彼や彼女の平穏さや強さに自分が依存しているわけではない、はずと信じている。

ただ確認したい。いろんな人、元気でいたらいいなあと。

 

 

おとといもさ、小沢健二ライブの後。

一緒に行った弟が終演後すぐに帰ったものだから

ガーデンシアター近くのフードコートでひとりラーメンを食べていたのですが

なんと同じ時間に知り合いが同じ場所─ライブ会場はもちろん、同じ時間に同じフードコートにいたと発覚して。

言って!会おうよ!と突っ込みたくなったが、本人言っていた。そう、インターネットでね…

 

見てない…そのときは見てなかったんだ……ごめんよう……久しぶりに言葉を交わしたかった。

 

これからはもっと今よりインターネットを見よう、そう決意する。

仕事じゃん、とかそういうアレじゃないですよ。

本来の自分の使い方を取り戻したくて。

インターネットは私の遊び道具で遊び相手。楽しい情報、勉強になる情報を見つけていたい。

あの頃みたいな秘密感と、行こうよ!話そうよ!の楽しさを。

 

馴染みのお店(のような雰囲気)が大好きだけれど

変わらなさを強制したり、エゴに依存することは避けたい。

ただ、変わりすぎると心がついていかなくて

続いていくはずのマンネリをどこかで求めてしまう現象もある。

それも知っているけどさ。

ひょっとして、マンネリこそが幻想なのか。

変わらないことなんてないのではと、まあ確かに理解はしそうになるよな。

 

そう、私は偶然か必然か、変わらない部分が多いかもしれない。

でも、関わる人の人生は変わっていくことが多い。

(変わっていないとしても、大好きですよ)

 

もちろん、そのすべてが素敵な変化となって続いていくものであるようにと願う。

いろんな新しさ、外部も内部も、ごくごく吸収しながら生きていたい。

たぶん、すべてに寄り添えたら 大切な人がどんどん増えていくと思うんだよなあ。

この世界には好きな人が、そりゃ、多いほうがいい。

 

今は、鳥ではなくて木のように見守りたい。

 


そうそう、2日間の魔法的宇宙ライブで得た不思議な感覚がもうひとつある。

その場にいる人たちの人生を、なぜかまるごと抱きしめたくなった。

 

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やたらと消えない光のように

その気持ち、きっとホンモノだろうから。

死なない嘘をつき続けてくれた人

 

母方の祖母が旅立ち、お見送りをしてきた。

眠っているようでとても綺麗だった。

桃色のような紅がよく似合っていて、お花も色とりどりで鮮やかで。

祖母が撮影したというお花の写真もいくつか入れて。


聞いてください。

祖母、99歳なんですよ!!!すごい。

ほんとに先月まで笑顔で元気そうだったので

うちの家系(長寿)からついに100歳が…と疑わなかったけれど。

気持ちはもう100年分の感謝です。

 

ありがとうおばあちゃん。


ゆっくりおじいちゃんと会えているといいな。

(祖父も95歳まで元気でした)

※確実に長寿家系

※全祖父母、80代超え 父方の祖母は健在

私たちもがんばるぞ… 

 

ちょっと疲れが出たので、家に着いてすぐ爆睡した。

まだ体は慣れないけど、

明日から徐々に生活へ。

 

こういう出来事は、人の一生を駆け抜けて体験するようで

本格的に実感するのはこれからなのだろうな。

 

 

私がとりわけ母方の祖母の死に対して深い気持ちを抱くのは、大正時代を知る長寿で人生の大先輩だから(もちろんそれもとてつもないが)というだけではない。

 


私が子どもだった頃、たぶんまだ5、6歳ぐらい。

それより前の可能性もあるが

当時の幼い私は、死というものがなんなのか分からなくて

…いや、今でも分かってはいないけれど

分からないのになぜか、人はいつか死ぬってことを知ったらしく。

 

なぜか、

死ぬって何?いなくなっちゃうの?

と、母方の祖父母の家で泣き叫んだことがあったのだ。

 

部屋がいくつかあって、居間ではない、もうひとつの部屋のほう。

フランス人形や大切そうな品がケースに入れて飾ってあったりする場所。

 

二つ結びにした髪の毛の自分を覚えている気がする。

結構な泣き叫びだった。

何か分からなくて、分からないことが怖くて泣いている。

それと、とにかく嫌だった。

 

自分が死ぬのも未知で恐怖だけれど、

みんなが死んじゃうのが嫌だ、いなくなっちゃうのが嫌だ、

この生活が終わってしまうことが嫌だ、という悲しみ。

その悲しみのほうが大きくて泣いていたように思う。

 

おばあちゃんも死んじゃうの?いやだー!と、

なぜか本人をぽかすかする勢いで

死なないでー!!と懇願した気さえする。

当時祖母はきっと60代とかなので、突然孫に死を意識させられて困ったかもしれないが。

 

でもさ、そしたらさ、その泣きじゃくる私を受け止めて

おばあちゃんは笑いながらこう言ったんだよ。

 


「死なないよ。」

 


30年ぐらい前の優しい嘘。

あの一言でだいぶ恐怖が和らいで、

なんだ、大丈夫なんだ!と思ったのも覚えている。

おばあちゃんも、みんなも、死なないんだ!

よかった!いつまでも一緒にいられて、

この楽しい時間がずっと続くんだ、

みんなで!

 


ほんとにずっと嘘をつき続けてくれたなあって思うんだよ。

 

 

祖父を、あ、祖母にとっては夫を亡くしたあと、たしか95、6歳まで本人の強い希望で一人暮らしで。

(いやほんとにすごい)

施設のサポートを受けるようになってからも、楽しそうに過ごしている様子がたびたび写真つき通信で届いて

見るたびにむしろ肌ツヤがよく、ふっくらして元気そうになっていたので

このままどこまで健康で生き続けてくれるんだろうと希望をもらっていた。

写真はいつも笑顔でね。ほんとに。

 

 

コロナ禍になる前、両親と私と弟で祖母の好きなレストランへ一緒に行って。

祖父母の住んでいた地で有名な観光スポットも見て、久々にみんなで来たなーと写真を撮ったりして。

 

まだまだ元気そうなのに、なぜか祖母は私と腕を組み「ここに来られるのは最後かもしれないから、よかったあ」的な言葉をつぶやいていた。

 

「いやいやw おばあちゃん元気なんだからまた来られるよ!」

本心でそう言った。

 

母によると、この日初めて歩くときに杖を使ったのを見たという。

 

祖母も祖父も基本性格が陽気でポジティブで、母方の家系はネアカなのだなと憧れているけれど

この日確かに初めて、「最後かもしれない」なんて言い回しを祖母の口から聞いたのだ。

 

とは言え、それが果たしてネガティブな気持ちから生まれた言葉だったどうかも なんとも言えないか。

来られてよかった、の、「よかった」を軸にしたのなら

みんなで行けてよかったし、叶えられてよかったよ。

 

 

コロナ禍で施設への面会が禁止になり、最近ようやく緩和された矢先。

数ヶ月前の手紙には「◯◯ちゃんは元気ですか」と

私の名前が添えられていた。

 

 

それが元気なのよ。

いつのまにかいい歳にもなって、年齢言ったらおばあちゃんびっくりしちゃうかも。

たぶん30過ぎたあたりから私が何歳だったのか、なんとなく下に見てくれているような気がする。

自分が若く見られると言いたいわけではなく

孫っていつまでも若くて幼いイメージなんじゃないかなって。

私がその立場になったと仮定したら、そう思ってしまう気がする。

本当に可愛がってもらった。

 


初めて死を意識して、そして怖さをなくしてくれた存在。

最後に会って話したかったな。もう一度。

 

 

弟と帰りの車で、「もしかしたらまた何年後か、10年後か、そして何十年後かにも必ずこういう出来事はある」話をいろいろとした。

 

 

「そしていつかは自分も死んじゃうわけで」

弟が当たり前のことをつぶやいた。

 

 

「面白おかしく終わりたい。湿っぽくならない方法はないかな。自分のときは笑って送ってほしい」

 

「何十年後かには送り方もさらに多様化している可能性はあるよね。その日を自分でプロデュースするのはありだなと思う。こういう音楽をかけてほしい、みんなの服装は黒くなくてもいい、とかね…ぺらぺらぺら…」

仕事の話みたいに語るなよ、と自分で思うが、

こういう日の帰りは反動なのか、やたら口数が多くなることも ある。

 

 

確かにその未来は怖いけれど、いつのまにかわけもわからず泣きじゃくっている二つ結びの子どもはいなくなっている。

別れに涙は出るけどね。

 

 

人との関わりは大切なことを教えてくれるよね。

ありがとう。

私たちがこの世界を駆け抜けたらまた会おうね。

 

 

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今日の1枚はオロナミンC

私たちが祖父母宅に遊びに行くと、必ずと言っていいほど用意してくれていたドリンクがオロナミンCだったのです。

祖母、10本セットだかをいつも歩いて買いに出かけ、手で持って帰っていたらしい。

(元気ハツラツとはこのこと)

祖父母の家の冷蔵庫を開けるのが楽しみで楽しみで。

ドリンクにアイスに、夢がいっぱい詰まっていた。

なんだか祖父母の家、おじいちゃんおばあちゃんちって楽しいことしかない夢のような場所だったなと思う。

それはふたりの優しさと 愛情で出来ていた場所だったんだよね。

 

ちなみに祖父は90歳過ぎても自転車乗ったり、お酒やパンやお菓子や嗜好品を楽しむ人でした。

すごいなふたりとも。

まだまだ教えてもらうことだらけです。

明日はこのオロナミンCを飲んでがんばるよ。

避けては通れない哀しみへ

少し前、確実に悪夢を見た。

内容は覚えていないし、

現実に呼吸が苦しいわけではないのに

とにかく不安になる苦しい夢で、

自分が消えてなくなってしまうようだった。

目覚めたときに日常があってよかったと、ひどく安心した。

 


そのことは忘れていた頃に、現実で悲しい報せがあった。

関連性があるとは思っていないけれど、

私が代わりに夢で苦しんだことにしてくれないか。

あれで苦しみはぜんぶ終わり。

私が夢で苦しむ代わりに、現実の大切な人が

穏やかな、できるだけ穏やかにゆるやかにそのときを迎えていてくれたら。

そうであってほしいと心から願っている。

 


忙しくしていないと悲しみにつかまる夜は

誰でも生きていれば必ずやってくるものかもしれない。

ただ、今ほんの少し訪れた空白のあいだに

たくさんの思い出を振り返っておくことはできる。

それもとても、大事なことだと思っている。

 


たくさん日記書きたいことがあるんですけどね、少しあとで、になりそうです。

私は健康に生きています!

ここに生まれるためにつないでくれたみんながいてこその健康。

大事に生きます。