日なたのアイスクリーム

オタク気質30代の散文裏ブログ。日常での気づきやオチのない日記、犬や猫のことなど。

生きているだけで

悲しいことやニュースに立ち会うと、本来、生きているだけでいいんだよなと思う。これは理由や憶測の話ではなく、いつ何があるか本当に分からないからという意味で。

すべてを複雑に考えたり、どうして自分は、と落ち込んだり未来がうまく明るく描けなくても 

なりたい理想が理想だけでも、今ここを生きているだけで本来はすごいことだし、何も背伸びしなくていいんだよな、と。

 

同時に、長さと濃さは違うなとも。

1年でも2年でも、一瞬でも、すべて大丈夫だ、と心を委ねられる出来事があったら、そんな瞬間があればその後の人生の財産になるのだろう。

果てしなく長い時間の中の数年間でも、色濃く印象深い出来事があり、築いた暮らしがあり、二度と忘れない存在。そんな出会いが彼女の中にはきっとある。そう信じたい。

 

神田沙也加ちゃんの曲を聴いてこんなに悲しい気持ちで泣いたのは初めて。新しいことをはじめる。区切りをつけてまた新しくなる。そのサイクルとバランスを見守っている気持ちといったらおかしいが、いつも彼女の生き方を応援していた。

 

いま彼女のさまざまな言葉を紹介したら憶測だらけになってしまうだろうから出せないけれど、著書を読んでいると時間の長さと濃さと居場所について、読み手の感情が動き出す。

いつもそうだった。本当に文章と考え方が好き。お菓子みたいな可愛さで理路整然とした言葉と伝え方で、誰にも真似できない声で、憧れを全部持っていたな。美しいものだけを見て、楽しいことだけをして。そんな毎日ばかりではないけど、多くあってほしい。きらきらした瞬間が多くあってほしい。そう信じたい。

 

大人もそれなりに板についてくると、それなりに悲しいニュースを経験するようになる。慣れることはずっとないけど、「一つもない、なんてことはない」「必ずある」と恐ろしくも認識はするようになる。

それでも予測がつかないところから悲しみはやってくる。多くの人間がいるのだから悲しみの種類も一つじゃない。だから受け止める側も、必ずあることかもしれないけれど、大丈夫にならないのは当然のことだと理解していく。空虚の状態のその場所に、いるしかない。

ただ言えることは、やらなきゃいけないことを少し緩めることには 慣れていこう。少しずつ。

罪悪感を抱きすぎないように。なんだか力を抜きたくて、だめな自分でもいいと許せるように。素晴らしい生き方と同じぐらい、見せられないぐらいに雑で適当な生活でも。

生きているだけですごいんだよ、私たちは。そう思う。