日なたのアイスクリーム

オタク気質30代の散文裏ブログ。日常での気づきやオチのない日記、犬や猫のことなど。

誕生日の正解(なんてないけど)

七草の日に生まれた。年が明けると割とすぐにひとつ歳を重ねるから、年末年始とセットでなんだかいつもいろんなイベントが一気にやってきて終わる。わっしょいわっしょい神輿が脳内で賑やかに駆け巡り去っていく。三連休明けぐらいからようやく新しいことが始まる実感。今年も無事に生きて誕生日を迎えられた。よかった。

この「無事に生きて誕生日を〜」のくだり、たぶん20歳ぐらいからやっている。命を落としそうになったことでも?幸いまだあまりないけれども(20代後半でトラックに巻き込まれたときが一番危なかった。かすり傷で済んだが)、常に生きていることは不思議だと思っているので「あ、今年も生きている」と客観で実感する日がこの日なのだろう。私の中で。

もちろん何より親に感謝する日であるし、周りの方々の優しさを感じる日でもあるし、めでたいな!と自作自演で喜んだりなんとなくお菓子を多めに食べてもいい日でもある。

 

親に感謝する日であるが、30代もベテランになると当の親も娘の年齢や誕生日を間違えそうになったぐらいナチュラルに「あたりまえの普通の日」になりつつあるけども、たぶんそれが平和なのでしょう。なんていうか、あまり特別感を持った主張をしなくなるな。したら申し訳ない、と思ってしまうというか。

 

誕生日の過ごし方の正解が未だに分からない。そんなものは各々違うし勝手に考えようというのは承知で、どういう立ち位置でいればいいのだろう。いや、各々それぞれでいいのだけれど。

冷静に誰にでも誕生日はあるわけで、自分だけが特別じゃない。でも、つまりみんな特別。毎日誰かを祝っていいはずだが人によって過ごし方や捉え方の差が生まれるのは当然。普段の生き方やコミュニケーションの積み重ね。秘密主義、祝ってもらうのは恥ずかしい。はたまた相手への関心度。色々個体差(?)はあるので慣れていかないといけない。

なんとなく、あ、この人もうすぐ誕生日なんだな、と分かるとお祝いしたくなるしなにかちょっとしたものを渡したくなる。でも自分がそういう待遇を受けるのは超嬉しいけどなんとなく申し訳ないという気持ちにもなる。めんどくさい人かな。あとは、もうおそらくわいきゃい全力で自分の誕生日の話をする季節は過ぎたのではと思うし(いやいつでも祝っていいんだよ。ただあまり括るのは良くないけれど、世代的には落ち着いている人は多い)、最近は「あまり事前に言わない」選択をしている。

そのくせ、いつ?と聞かれたらちょっと嬉しくなって答えるからこちらは覚えていそうな相手を覚えてしまっていて、しかし当日連絡がなかった場合はひそかに切なくなったりもしてしまうから心理ってものはややこしい。「言わないこと」は単に傷つかないように防波堤を作っている側面もあるかもしれない。

 

同世代のインフルエンサーSNSで、自身の誕生日の3週間前ぐらいから「プレゼントいただいた♡」「ケーキでお祝いしていただいた♡」的な投稿が続いていたのを見て、ちょっと圧が強めかなと思ってしまったのもあるかもしれない。いや、私もお祝いが嬉しくて投稿することはある。ただ一般人が真似すると前段期間が長すぎて大変なので気をつけようと思った。インフルエンサーで仲の良い人も多ければたくさん祝われるのは当然だし、紹介することで渡した相手の良さも伝えられるしなんの問題もないが、一般人がそのまま真似してしまうのはやや危険。圧が強い大人はこわいよねきっと。言うと相手は覚えなくてはいけないし、会ったらあげなきゃいけないのかなとなる気がする。クリスマスやバレンタインのように盛り上がる前段期間が長すぎてもいいのは、バースデーイベントのある著名人やインフルエンサーや誰からも愛されるキャラに限るような気がした。

そういえば「最近は、プレゼントは実際の誕生日付近に会えた人にしか渡さない」と言っていた先輩がいたな。それも良い気がする。

 

祝った相手には祝われたいとか、ああ一方通行だったのかなとか、そんなことで勝手にしょんぼりとした頃も確かにあったけれども、手放した。

まず、どの口が、という反省。自分だって周囲の人の誕生日をうっかり悪気なく忘れてしまったことだって正直ある。とても気まずい。けれど祝いたい気持ちは本当。あの人だってきっと同じような気持ちだから、空白にいじけないこと。また、悪気というよりなんとなくの習慣をやめたいだけの場合も自他共に許容すること(あるよね、大人になると)。

それと、なんだか祝われることを目指して人間関係を築こうとしているようで、気にし過ぎている自分が恥ずかしく愚かだなと感じたのもある。付け焼き刃ではなく日常のなんでもない日を、打算なしで人としっかり関わることのほうが大事だ。誰かに思い出してもらえる存在になりたい、だけではだめ。人に好かれたかったらまず自分から人を好きに。と、これは自戒も込めて思う。人をよく見て接していたい。

 

あまり主張はしない。ただ、本当に全く誰にもその日を知られず、うっかりの遅れすらなく、誰からもおめでとうが言われないとしたら正直寂しい。寂しくなると思うし、生き方を顧みて反省するだろう(定期的にしているつもりではあるけれども、自分に甘い)。

さすがに「私には誕生日はありません」という顔はしきれず、ほんのり覚えていてほしそうな素振りはこれからもするかもしれない。でも、めんどうな人になりたくないのであくまでクレクレアピールのない程度に…ああこういう考えが既にめんどくさい人だよねえ。

 

……と、ぬるっと迎えた日ではあったが、こんな話をつらつら書いているような女のことを覚えていてくれる方々がなんと今年もおりまして、色々な方におめでとうのメッセージやギフトをいただいてしまったのが一番ありがたいことでした。嬉しい。ありがとう。毎年連絡やプレゼントを贈ってくれる友人、サプライズなギフト、久しぶりに話しかけてくれた人、教えていないはずなのにメッセージをくれた人まで。

全部嬉しかった。心があたたかくなった。歯磨きしながら「これだけの人が声をかけてくれるなんてありがたいな」と感激して、感謝しながら眠った。充分だな、とも思った。人生悪くないと思えるのがこの日、なのかもしれない。

アピールはしすぎたくないけれども、やっぱり完全に忘れられるのは寂しいかな、今はまだ。

 

でもなんで教えていない人からもメッセージが来たのかなと考えて、そういえばSNSで何気なく誕生日を設定していたことを思い出した。いやアピールしているじゃないかと、これまでの文章が水の泡になりかけているけれども、どうなんだろうこれは。かまって系…か、ただ、SNSって人から思い出してもらえる素敵な機能を搭載してくれるとも言える…そうだ、この機能であやふやだった人の誕生日をこっそり確認して、自信を持って当日にお祝いできたりもしたんだよな……オフにするかは…ちょっと考えよう…

 

私がこんな堂々巡りのこじらせ系思考をしても、気を使っても使わなくても、めんどくさいことを考えても考えなくても、どんな状態でも「ただ覚えてくれている」人たちもいる、いてくれる。それが何よりとても恵まれていると思う。純粋に祝い、祝われる。そこに打算はない。私もその人たちの生まれた日はずっと覚えている。

 

正解なんて本当は何でもよくて、何もしていなくても当たり前のように存在を覚えてくれる人がいる。それだけで生きている意味ってあるよなあと、本気で思う。生きていることは不思議で、そしてたぶん、関わる分だけ誰かやなにかの力で、生かされている。

 

みんなありがとう。そして今日誕生日のどこかのあなたも、おめでとう。お互い素敵な一年になりますように。

2022の指針と元気をくれるポテト

あけましたね。今年もよろしくお願いします。

 

去年は社会的にも内面的にもさまざまなこと、まだまだ完全晴れ模様とはいかなかった気がするけれども

個人的には2020年より息苦しくはなかったかな。元来おうち好きなのもあり。

何を得ようと何を失おうと、どうせ時は前にしか進まないし(←推しの名言。を差し込みたいだけ)

天気みたいに、外にも内にも「◯◯のせい」をあまり使いすぎずにあるがままを受け止めていけたら。

 

備忘録で記そうと思ったこと。

「こだわりすぎることに、こだわらない」

─周りからは気づかれない自分だけのジンクスやこだわりを楽しむのは、大好き。むしろそれが私の長所でしょうに、と言ってくださる人もリアルな知り合いの中にはいるかもしれない。

そこをやめるわけではない。

そう、妥協するわけではないけれども

こだわりすぎて自他が生きづらくならないようにしたい。

 

先日久本雅美さんとジェーン・スーさんの対談を読む機会があり、「私たちだけがいつまでも理詰めなんだよね」的なニュアンスの言葉を発見してとても感銘を受けたのです。

ああ、確かにそうなってしまいそうなときってあるな、と。

正しいこともある。ミスはしたくない。でも圧が強い雰囲気にはなりたくないんですよね。

完ぺきにすることは気持ちがいいけれど、ときどき「仕方ないじゃん」って言っていってもいい気がする。天気が良くなくても仕方ないよって言える人間性を育てる。もちろんミスはしないほうがいいから手を抜くわけではないけども(ん、こういうとこか?)。

 

手始めとして、年末購入した良さげなシャンプーをきりよく年が明けてから使用するか、今すぐ使ってしまうか悩んでいたが「いや、いま使いたいから」と2021年のうちに開封した。めちゃくちゃいい使い心地で気分良く年が明けられた。早く使ってみてよかった。

そんな些細なことでも、こだわりを崩す勇気。頭皮も心もガチガチ感をゆるめていきたい。

自分や周りを許せなくなる大人にはなりたくない2022ということだ。

 

 

しかし2022か…

30日、ひょんなことから2007年の自分の日記を見ていた。

「2000年代もだいぶ板についてきた」なんて書いていて、いやあ遠くに来たなと。

2020年代なんて、あの頃絵空事だった。

来てしまったよ。

新しい出会いもあれば、2007年の1秒後にワープして来たのかってぐらい変わらない関係性もある。

生きてみるものだよ、生きていられるのは嬉しいことだよと、きっと生涯かけて似たようなことを言っているだろう。15年後この日記を見て答え合わせしているかもな。生かしてもらっている、色々なことに。

 

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マックポテトもうMサイズあるんだ?と嬉しくなり撮った年末。注文時に「Mないですよね」からの「サイズはいまS、M、Lの中から〜」まさかの店員さんの返しにリアルに「えっ!じゃあMで」と軽く動揺してしまったよ(これを撮った31日の11時はポテト再開直後だったようだ)。

先日のマックポテト不足のニュースで「30代ポテトファン」と紹介された女性がいた。羨ましい。私も30代ポテトファンとか◯◯ファンという肩書きがいい。なんだか楽しそう。

 

そういえば去年、と言うと遠いけど2021年の秋頃。マックポテトを食べながらふと「ポテトを一生食べられる心身でいたい」「これは立派な目標だ」と思ったんですよ(マックポテト大好き)。

ジャンクなものを求める気持ちは元気な証な気がするし、胃も含めて、芋を食べて笑える心身でいられたら楽しみがたくさんあっていいなあ、と思っただけなのですが。

まあ気持ちや指針は変わってもいいし、急に芋が受け付けない体になってしまったらもちろんやめるけれども

一生食べないものがたくさんあるより、一生食べられるものがたくさんあるほうが毎日がカラフルになる気もしている。あくまで私の場合。

 

何十年後まで生きていられても、ポテトがうまい、食べ過ぎに気をつけなきゃ、とか言っていたいな。

今年もこれからも求めるものはそういう、小さく満たされることの積み重ね。

 

 

☆今日のできごと

ニューイヤー駅伝最高

佐藤悠基さん、今井正人さんリスペクト!

・東洋OBの活躍に心躍る

・優勝旗…気になる

基本お正月は駅伝を観て終わります。

ニューイヤー駅伝、ドラマがありすぎた!

髪と色を整えて、終わりへ向かう

仕事も無事納め、諸々用事を済ませつつ年内最後の美容室へ。

髪がきれいだとモチベーションが上がるので、普段からインスタの保存機能を使い気になる髪型や髪色をストックしている(「髪型」フォルダを作ってある)。

直近の保存済み画像を見るとどう見てもピンクっぽいカラーばかりだったので気分には抗わずピンク系に決めた。

ちなみに神田沙也加ちゃんの12月初旬のピンク髪ストーリーもとても可愛かったのでスクショしていた。本当に彼女はいつも可愛い髪型と色をしている。

 

なりたい姿に明確なイメージを持ってサロンに向かう日もあれば、まったく方向性が定まらず美容師さんに「迷ってるんですよ…」と相談することもあり、今回は前者。

綺麗なピンクベージュに色落ちしていくように最初は少し濃いめな印象で入れていただいた。

「年始を楽しめるように」

美容師さんが丁寧に気合いを入れてくれた瞬間。

ああ今年が終わるなあ。

数年来のお付き合いになるが、年内の予約はすでにいっぱいとのことで人気ぶりが伺えてなんだか嬉しい。

 

実際の色味はこれより少し暗いけど、雰囲気。


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なんか顔の色味も赤いですが、修正はめんどいのでアプリにお任せ。

ブリーチは数ヶ月前にしたっきり、カラーだけ。ブリーチしてもっと明るめピンクにするのもいいな。またいつか。

カットは今回は前髪だけです。

洋服はmoussy(!)。個人的には長らくノーマークだったmoussyがここ最近実は割とツボです。

ジゼルにちょくちょく載っていて気になっていたのだよね。人生初めてmoussyの店舗に行ったよ今年。

 

インターネット歴が長めなので自撮り歴も言えないほど長く、まあ18、9年ぐらいなんですけど。リアルに日本で何番目ってぐらい先駆者だと勝手にわくわくしているんですけど、どうなんだ。

18年も続けていればよほど壊滅的な腕ではない限りそれなりにうまくなるはずで、自分で自分を撮るのに長けているとは思っていますが
自撮りのきっかけは主に「美容室に行った直後の髪型を記録したいから」だった。

今もあまり変わっていない。

だって美容室に行くと簡単に雰囲気を変えられる、髪の毛がきれいになる、あと「私、ちゃんと身なりに気を使っている」の気分になれる。なんてありがたいサービス。それが楽しくて、記録したい。

 

さ、仕事も納めて駅伝ガチ応援の準備は整った。

今年もまた終わっていく。

終わりを見ていけることに感謝しよう。

生きているだけで

悲しいことやニュースに立ち会うと、本来、生きているだけでいいんだよなと思う。これは理由や憶測の話ではなく、いつ何があるか本当に分からないからという意味で。

すべてを複雑に考えたり、どうして自分は、と落ち込んだり未来がうまく明るく描けなくても 

なりたい理想が理想だけでも、今ここを生きているだけで本来はすごいことだし、何も背伸びしなくていいんだよな、と。

 

同時に、長さと濃さは違うなとも。

1年でも2年でも、一瞬でも、すべて大丈夫だ、と心を委ねられる出来事があったら、そんな瞬間があればその後の人生の財産になるのだろう。

果てしなく長い時間の中の数年間でも、色濃く印象深い出来事があり、築いた暮らしがあり、二度と忘れない存在。そんな出会いが彼女の中にはきっとある。そう信じたい。

 

神田沙也加ちゃんの曲を聴いてこんなに悲しい気持ちで泣いたのは初めて。新しいことをはじめる。区切りをつけてまた新しくなる。そのサイクルとバランスを見守っている気持ちといったらおかしいが、いつも彼女の生き方を応援していた。

 

いま彼女のさまざまな言葉を紹介したら憶測だらけになってしまうだろうから出せないけれど、著書を読んでいると時間の長さと濃さと居場所について、読み手の感情が動き出す。

いつもそうだった。本当に文章と考え方が好き。お菓子みたいな可愛さで理路整然とした言葉と伝え方で、誰にも真似できない声で、憧れを全部持っていたな。美しいものだけを見て、楽しいことだけをして。そんな毎日ばかりではないけど、多くあってほしい。きらきらした瞬間が多くあってほしい。そう信じたい。

 

大人もそれなりに板についてくると、それなりに悲しいニュースを経験するようになる。慣れることはずっとないけど、「一つもない、なんてことはない」「必ずある」と恐ろしくも認識はするようになる。

それでも予測がつかないところから悲しみはやってくる。多くの人間がいるのだから悲しみの種類も一つじゃない。だから受け止める側も、必ずあることかもしれないけれど、大丈夫にならないのは当然のことだと理解していく。空虚の状態のその場所に、いるしかない。

ただ言えることは、やらなきゃいけないことを少し緩めることには 慣れていこう。少しずつ。

罪悪感を抱きすぎないように。なんだか力を抜きたくて、だめな自分でもいいと許せるように。素晴らしい生き方と同じぐらい、見せられないぐらいに雑で適当な生活でも。

生きているだけですごいんだよ、私たちは。そう思う。

2番目のチキンと食べやすいチキンと1位のあの子

ファミリーマートの入り口の垂れ幕?にでかでかと書いてあるクリスマス仕様のコピーが「ファミマは日本で2番目に人気のチキンのお店!」なのがここ数日ずっと気になっている。で、ちなみになんですけどね、と言わんばかりのノリで「1位はあのチキンの有名店!」と小さく書いてある。

二度見したその後、そうだ、そういうウィットに富んだ雰囲気の戦略は古くからあったな、某炭酸飲料だってそうだなと脳内で納得させる。まあ今回はコンビニとファーストフードという若干フィールドも突き破った企画になっていそうではあるが。

 

少し歩いてモスバーガーの前を通ると「食べやすさで選べば、モスチキン♪」と書いてある。勝手にデジャヴを覚え二度見し、また放っておけなくなる。

ここもか。君もか。

 

クリスマス商戦、コピー合戦、チキンのプレゼン。謙遜した主張が控えめと自虐を両立させてきた。各企業の売り場に並ぶたくさんのチキンに想いを馳せる。得意領域を把握する冷静さ、求められる役割に徹する仕事人のようなスタイルだなと思う(誤解なきようにはじめに言っておくと、これからする話の「食べる」も「食べやすい」もチキンを食べるということ、それ以上でも以下でもない)。

 

二社ともどうやってもこの時期ケン◯ッ◯ーには敵わないことを最初から認めつつ、こちらは争う気もないんやでと白旗を上げつつ、しかしその「一歩以上譲って控えめに自分の立場を主張する姿」が逆に今で言うあざとい感じになってしまっているような気もするのは戦略なのか、天然なのか。

2番目で本命にはなれないけど、こちらには2番目にしかない魅力があるし(?)、2番目でも最高においしいって知ってくれている人もいるから。誰かは見ていてくれるから。

人気投票1位にはなれないけど、でも誰にも負けない訴求ポイントがある。それ以外で張り合う気はない、でも「ここだけ」は自信があるんです。そこでたたかう。

そういえば自分のフィールドを早い段階で見極めて居場所を確立させた某さっしーは人気投票1位になったが、それ以前の「さしこのくせに」は秀逸なネーミングセンスだったと思う。彼女がプロデュースしたリリミュウのコスメ可愛いんだよね。考え方や美容の話も好んで見ている。

 

チキンのプレゼンをアイドルの世界や本命体質かそうじゃないかの議論に発展させるわけではないが、こういう状況って日常生活でもあるんだろうなあ、あるよなあとふと考えてしまうね。誰かと比べること、敵わないことがある事実を受け止めて、そこからどう自分のままで潰れず強みを見つけて生きていくか。なんて。

あと、ライバルがいるから頑張れる少年漫画構図もやっぱりあると思う。飲料業界もファーストフードもコンビニも、ひとつの企業からヒットアイテムが出たらそれを超えるいいものを作ろうときっとやる気を出すのだろうし、ライバル同士で切磋琢磨して記録を塗り替えられたりするものね。マラソンだって設楽悠太日本記録を大迫や鈴木がするりと更新して、日本選手どこまでいくんだろうって思ったりもした。

 

今回のコピー云々とは別の話だけど、昔、電車が人的トラブルで何時間も動かずあまり知らない駅で降りざるを得なく、ごはんも食べておらず途方にくれたときに発見したファミマでファミチキをぱくりと食べたときの感動は忘れられないよ。 #ファミマのうますぎクリスマス  か。コンビニもファーストフードも自動販売機も、ほんとありがたい発明だよ。

 

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ちなみに1位なのか本命なのかは個人の見解に任せたい某タッキーのクリスマスメニューページを見てみると、とりあえず「Happy Christmas 2021」とは書いてあった。そして煌びやかなパーティースタイルのテーブルコーデが組まれたチキンと乾杯ドリンクの画像がコピーなしで設置されていた。

この潔さは……確かに本命の相手は「おはよう」や「おかえり」「今日のごはん(写真)」とかいう何気ない挨拶だけでも言葉の重みというか、貴重さがあるのかな。むしろその挨拶ができる間柄なことが本命であることを物語っているのかもしれない。

話がだいぶごっちゃになってきたが、でもケンタ(人の名前みたいで余計ややこしくなる)もツイッターで特別なハッシュタグ絵文字を設定したり盛り上げているからあぐらをかいているわけではないと思う。もちろん竹内まりやさんという強力なパートナーもいるが、みんな毎年自分の仕事をまっとうしているんだよな。

とにかく、どのチキンもさまざまな家庭や環境に幸せな時間を運んでくれるといい。そしてクリスマス祭り関係者の皆さま、毎年ありがとう。休めるときにしっかり休んでくださいね。

手元に置いておきたい雑誌、GISELe(ジゼル)とあの頃寄り添ってくれた雑誌あれこれ

2019年3月号、約2年前のジゼルが好きすぎて手放せない。先日、紙は定期的に整理しなければ…と重い腰を上げて部屋に積み上がった雑誌をパラパラめくるも「いや、やっぱりこの号全体的に最高に好みなんだよな……」ワクワクして逆に部屋の目立つ位置に移動させた。

初めてジゼルを紙で購入した記念すべき号。原宿系からスタートしたファッションへの興味も年齢を重ねるごとに服装迷子というか雑誌迷子というか、なかなか今の自分にちょうどいい雰囲気の雑誌が分からなかった(これカジュアル系の大人あるあるだと勝手に思っている)頃に出会った。

まあ今も完全に定まったかは謎だけど、少なくともジゼルという好きな雑誌はできた。あとファッジやクルーエルのテイストも好きだが、この両誌の雰囲気があまりに似ている理由は色々あるらしいので語るのは別の機会に。

 

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ジゼルに一旦話を戻すと、この号、企画もスタイリングもモデルさん(特に表紙にもなっているアリスさんという方の存在感がすごい)もとにかく約2年前とは思えないほどの色褪せないセンス。

どのページもおしゃれで映画のワンシーンみたい。それでいて絶対に真似できないようなハードルの高いバランスではない。このカラーの組み合わせ好きだな、手持ちの洋服で合わせてみようかな、新しいアイテムを買うならこの色のスカートにしよう、などなどおしゃれ脳が活性化されるような。選択の幅が広がり楽しい。

ファッション情報(小物やコスメ含む)に特化したコンセプトというのも、心があちこちに飛ばず服の話に入り込める効果もあるのだろうか。

 

生まれて初めて各ページのクレジットの「styling」を頼りに担当スタイリストの方の情報を探しにいった。ジゼルのスタイリストさんはどう考えても敏腕でセンスが良い。

中でもどうやら私は石関靖子さんという方のスタイリングがとてもとても好きらしく、関連記事を見てもやっぱりどの組み合わせも好みで素敵だった。しかし彼女のインスタアカウントはあるにはあるが5年前の1投稿で止まっていた。な、なんと。これから日々の服決めの参考に覗こうと思っていたが少し難しそうか。

あと樋口かほりさん、岩田槙子さんのスタイリングも好きだと判明。大人っぽい品の良さとスパイスの足し具合というか、ハズし方。迷ったときの参考にしたい。

 

数少ない自分の長所に「自分に似合うものを見極める目、可愛いものを見つけて組み合わせる力」が少しあると思ってはいるが、あくまで自分のものさし。ないものを補いたいとき、アップデートさせたいときはプロの力を借りるのがいちばん良い。

いつだって好きなもの、ピンときた服を好き勝手着ていたいけれど、同時にただ好きなだけではなく今の自分に似合うものを見つけて身に纏っていたい。顔と服装にギャップがありすぎるのを避けたいとずっと思っているんだよ、これでも。

 

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石関靖子さんのスタイリング、ほんの一部。ああ可愛い。色使いが特に好み。赤が好きなのもあるけれど、この絶妙な映画感と日常感のバランス。

というかカメラマンの方も企画を考えた方もモデルさんもやっぱり全ての方のセンスが素晴らしい。

そして、どれだけデジタルデジタルになってもやっぱり紙の存在感はすごいな。うまく言えないけど、いい雑誌は紙で見るとより雰囲気が出るように思う。

 

最新号も安定して可愛かった。

本当は今回話した2019年3月号のリンクを貼りたかったけれど、はてなブログのシステムには出てこなかった。それ以外の月なら結構見つけられたのに。

 

せっかくなので他の2019年の号でレビューの文章が好きなものも貼っておく。

まず表紙が既にドラマチック。ジゼルのAmazonレビュー、この雑誌を知る前に読んだらサクラと誤解するかもしれない感動テンションの方も多いが読んだあとはそうなる気持ちも分かってしまうよ。

 

ちなみに読んできた雑誌で特に印象深いものを羅列するとこんな感じ。

ピチレモン / Lemon / PeeWee / Junie /  KERA / FRUiTS / CUTiE / Zipper / Vita / SEDA 

おそらく30代以下は初めて名前を聞く雑誌もあるはず。ピチレモン、Lemon(ピチレモンのお姉さん雑誌というのがあってな)はおしゃれに興味を持った入り口で、以降はいわゆる青文字系が多い。カジュアル、ガーリー、古着、原宿スナップ、読者モデル、まつげバサバサフチありカラコンパチパチズ、きっとそんなワードで色んなことを連想できるターゲットが心ときめかせ隅から隅まで読みたくなる情報が詰まっている雑誌を好んでいた。そして書きながら懐かしさと今現在ほぼその雑誌たちが存在していない事実に胸がキュッとなった。

カジュアル派が歳を重ねるごとに寄り添ってくれる雑誌が、正直あまりない気がするのも切なかった。というより創刊しても割と早く姿を消すものが多かったように思う。

もうだいぶ前、大人カジュアル!と謳い都内の駅の広告ジャックをした記憶のあるLipsという雑誌もかなり早く、思った以上に早く休刊し「大人カジュアルって難しいんだな、人口そんなにいないのかな」と寂しくなったことを覚えている。今から考えるとそれは大人カジュアルが云々ではなく雑誌自体にさまざまな事情があったのかもしれないが(PUFFYaikoCHARAの表紙が嬉しかったのを覚えている)。

 

そういうわけでカジュアル系の道標がなかなか定着してくれなかった中、程よいバランスとハズし方のセンスがずば抜けているのが今のところジゼルだと思っている。ジゼルは一筋の光。年代も流行りも問わず、おしゃれが好きな人の心をくすぐる何らかのポイントがどう考えてもある。独自の立ち位置で、どうかこれからも今のスタイルで続いてほしい。

 

そうそう、オリーブは世代が少し異なり通っていないが、もう少し早く生まれていたら絶対読んでいたし大好きだったと思う。小沢健二好きだし(オリーブ=小沢健二ではないはずだが、連想はする)。Peeweeも良い雑誌だったんだよなあ……Vitaも好きだったなあ。あとプチセブンやPSやminiもちょいちょい読んだな。今も健在なのはminiだけか。宝島社の雑誌は付録への熱量もすごいがCUTiE以外はほぼ健在のように見えるからすごいな。

 

雑誌はおしゃれ史やカルチャーだけではなく自分の歴史も紐解けるおもしろさがある。ファッション誌だけではなくグルメ系や美容系の雑誌も好き。いつかそのあたりの話も書こう。

努力才能自己分析(ジャンプの三大原則のように)

隣の芝生は青いとは古くから(?)使われている言葉だが、どんなに蜃気楼のようなものだと分かっていてもその芝生はしかも自分の芝よりも広大で手入れも綺麗にされているように見える。だったら自分の芝も同じように綺麗に満足のいくものにすればいいのに、なぜか自分の芝を疎かにして人の芝のデータばかり取ろうとする。膨大な芝情報のデータを抽出して「自分の芝と同年代の芝を比較するとこんなにも違うのか」とか分析を依頼されているとでもいうのか。

 

おかしなところで妙な自信と劣等感があるタイプだと感じている。どんなに青い芝に憧れても最終的には自分が納得しているかどうかが判断基準になるが、たとえ納得していてもすべての選択が正しかったと後ろを振り返らずに突き進んでここまで生きてきたわけではない。たくさん迷って悩んで、喜んだり自分を責めたりほめたりしてきた。「間違っていても後から修正すればよくない?」とあっけらかんと思える性格に憧れるし、できればそうなりたい。

 

いしだ壱成が働き口がない、とこぼしても「いや演技の才能があるだろう」「また俳優をやればいいのに」「やってほしい」と多くの人が突っ込みたい気持ちでいっぱいではと推測してしまうが、本人は気づかないものなのかな。その特別な才能と天職と、「持っているもの」に。病気があって調整は難しいのかもしれないけれど、少なくとも昔のドラマを知っている身としては独特な存在感を放ち演技で心を動かす能力のある人であったことは間違いないと言いたい。

もちろん天職じゃなくても、好きだったりやってみたいことがあればそれを突き詰めればいいし、自ら天職にしてしまうぐらいの気持ちがあればいくつになったっていろんな可能性の下で生きていけるはず。規模は全く違うけれど、私だって人から見たら「いや、あなたにも◯◯があるだろ」と特に心配されなかったり突っ込み待ちと思われることもあるのかもしれない。本人が特に大変と感じないこと、何時間やっても苦にならないこと、没頭できること、楽しいこと、いろいろあるけれど。

漠然とずっと思っているのは、環境の変化があったとして、それを誰かに告げたら「めっちゃ合ってるよ」「それ絶対いい」「あなたにぴったり」と言われるような、パズルのピースがハマるようなしっくりくる方向に行けたらいいなということ。格好良く言えば自分の生活をデザインするってことか?今だって恵まれているしあの頃に戻りたい的な不満もなく、むしろどうして特に何も成し遂げていないのにこんなに世の中の恩恵受けているのかと恐縮するが、そこから飛び出すとしたら「そうなると思っていたよ」的な自他ともにギャップの少ないしっくり具合を見極めていきたいと思ってしまう。

自分が納得することが大事だし、イメージだけでその人の性質を決めつけてしまうことは危険だが、周りの人のほうがとっくに適性や穏やかに生きられそうな方法を知ってくれている場合だってある。自信がない人ほど人に頼ったり意見を求めることをほんの少し頑張るといいのかも。これは自分に言っている。いしだ壱成がその「出来ちゃうこと」や「求められていること」に向き合って気がついてステージで光を浴びて笑顔になって身近な人を笑顔にさせることもできたら、きっとなんというかかなりホッとしてしまう私がいるだろうな。